鈴岡小笠原氏の滅亡
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鈴岡小笠原政秀は、寛正2年(1461年)の光康の死により小笠原家の惣領の家督を継承したと見られ、府中小笠原清宗(持長の子)から府中を奪い返して、小笠原3家を統一し、文明5年(1473年)には幕府から信濃国守護に任ぜられた。しかし、筑摩郡の国衆の支持を得られなかったため、政秀は更級郡牧之島城に逃れた府中小笠原長朝(清宗の子)と和睦し、明応元年(1492年)の幕府の近江遠征には(長享・延徳の乱)には長朝が出兵した。 松尾小笠原氏の小笠原家長(光康の子)は鈴岡小笠原政秀と共闘し、応仁の乱中の文明5年(1473年)、東軍の要請で木曽家豊と共に美濃国に遠征したが、文明12年(1480年)に政秀と合戦となり戦死した。家長の子松尾小笠原定基は明応2年(1493年)に政秀を暗殺し、鈴岡小笠原氏は滅亡した。 鈴岡小笠原氏の滅亡後も松尾・府中両小笠原氏の争いが続いた。ところが、駿河国の今川氏親が遠江国に侵攻すると、その対応に苦慮した遠江の守護職である斯波義寛は信濃小笠原氏への援軍を依頼した。ところが、松尾小笠原氏も府中小笠原氏も互いに自分への援軍要請を求めて争う始末であり、却って小笠原氏の内紛に巻き込まれる形となった斯波氏は両者の仲立ちを引き受けて和睦を図り、その後永正年間に入ると府中小笠原貞朝の娘が松尾小笠原貞忠の妻になることで一時的に和睦して斯波氏への援軍を送った。だが、遠江は今川氏の手に落ち、両者の和睦も長くは続かなかった。
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