鈴岡小笠原氏の滅亡とは? わかりやすく解説

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鈴岡小笠原氏の滅亡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 15:41 UTC 版)

小笠原氏」の記事における「鈴岡小笠原氏の滅亡」の解説

鈴岡小笠原政秀は、寛正2年1461年)の光康の死により小笠原家惣領家督継承した見られ府中小笠原清宗(持長の子)から府中奪い返して小笠原3家を統一し文明5年1473年)には幕府から信濃国守護に任ぜられた。しかし、筑摩郡国衆支持得られなかったため、政秀は更級郡牧之島城逃れた府中小笠原長朝(清宗の子)と和睦し明応元年1492年)の幕府近江遠征には(長享・延徳の乱)には長朝が出兵した。 松尾小笠原氏小笠原家長(光康の子)は鈴岡小笠原政秀共闘し、応仁の乱中の文明5年1473年)、東軍要請木曽家豊と共に美濃国遠征したが、文明12年1480年)に政秀と合戦となり戦死した家長の子松尾小笠原定基明応2年1493年)に政秀を暗殺し鈴岡小笠原氏滅亡した。 鈴岡小笠原氏の滅亡後も松尾府中小笠原氏争い続いた。ところが、駿河国今川氏親遠江国侵攻すると、その対応に苦慮した遠江守護職である斯波義寛信濃小笠原氏への援軍依頼した。ところが、松尾小笠原氏府中小笠原氏互いに自分への援軍要請求めて争う始末であり、却って小笠原氏内紛巻き込まれるとなった斯波氏両者仲立ち引き受けて和睦図りその後永正年間に入ると府中小笠原貞朝の娘が松尾小笠原貞忠の妻になることで一時的に和睦し斯波氏への援軍送った。だが、遠江今川氏の手落ち両者和睦長くは続かなかった。

※この「鈴岡小笠原氏の滅亡」の解説は、「小笠原氏」の解説の一部です。
「鈴岡小笠原氏の滅亡」を含む「小笠原氏」の記事については、「小笠原氏」の概要を参照ください。

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