朴正熙時代とは? わかりやすく解説

朴正煕時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 11:14 UTC 版)

大韓民国」の記事における「朴正煕時代」の解説

詳細は「第二共和国 (大韓民国)」、「第三共和国 (大韓民国)」、および「第四共和国 (大韓民国)」を参照 李承晩失脚後張勉内閣の下、政治的自由化が急速に進展した学生中心とした北へ合流目指し南北統一運動盛り上がり見せるに至り危機感抱いた朴正煕少将をはじめとした軍の一部1961年5月16日クーデター決行し国家再建最高会議権力を掌握した。第三共和国憲法承認後、朴正煕1963年10月に第5代大統領当選 した1963年12月16軍事政変主導した朴正煕らによって第3共和国樹立された。1960年代開発独裁一環として政府軽工業中心輸出主導発展ベトナム戦争派兵などを通じた外貨獲得経済発展実行した1970年代には重化学工業電子産業集中的に育成した。 しかし、都市農村所得格差低賃金労働貧富格差のような問題残した1972年野党勢力伸張より政合法的延長難しくなった朴正煕10月17日、非常戒厳令発し憲法改正第四共和国)、大統領直接選挙廃止して、自らの永久政権化を目指した。大統領選挙で不安を感じた朴正熙1972年7·4南北共同声明発表し統一準備するという名目10月維新体制樹立した。これによって、大統領の任期6年再任制に修正するうえ、国会議員大統領任命できる法案まで可決させるなど、大統領権限を非正常に拡大させた。このため労働運動界、学生勢力民主化求めるが、政府相次ぐ緊急措置通じて抑制した。 しかし、民主化運動勢力労働運動家反発続いた米国韓国の「人権侵害」を批判し始めると、韓米間に外交摩擦起きた第2次オイルショックまで経験し経済危機内部混乱大きく加重した。「維新体制」と呼ばれるこの時期には、反対派対す激し弾圧より政治的自由が著しく狭まったが、1979年10月26日側近中央情報部長により朴正煕暗殺された。朴正煕時代は強権政治の下、朝鮮戦争以来低迷していた経済再建重視した一方で政権人材登用産業投資際し自身出身地である慶尚道優遇し全羅道に対して冷遇したため慶尚道全羅道地域対立差別問題深刻になった。この問題は今に至るまで解決していない。しかし、全斗煥12月12日軍事反乱起こして実権掌握し崔圭夏大統領干渉し始めた。 彼らは1980年クーデター起こし崔圭夏政府1980年8月崔圭夏大統領辞任崩壊してしまった。

※この「朴正煕時代」の解説は、「大韓民国」の解説の一部です。
「朴正煕時代」を含む「大韓民国」の記事については、「大韓民国」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「朴正熙時代」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「朴正熙時代」の関連用語

朴正熙時代のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



朴正熙時代のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの大韓民国 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS