最初の定住と都市の成立(13世紀まで)
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「イーザーローン」の記事における「最初の定住と都市の成立(13世紀まで)」の解説
市域におけるヒトの痕跡は、旧石器時代中期の約42,000年前からその後数千年のものである。エストリッヒャー・ブルクベルク、マルティンス洞窟、グリュールマンスハイデ、グリュールマンス洞窟からの出土品、特に道具や人骨は、流浪する集団が一時的に滞在していたことを示している。イーザーローンに数多くある洞窟は、数千年にわたってヒトや動物を庇護していた。新石器時代(紀元前 4500年から)以後、イーザーローン地域で永住的な居住がなされるようになった。上述の他、ドレシェーデ、ジュンメルン、ヘンネン、ホンゼル、シェルク、シュテュッベーケンからの出土品もこの時代のものと分類されている。農耕器具、硬砂岩製の斧や幅広の鏃がこうした出土品に含まれる。青銅器時代からは、珪岩製のナイフ、青銅製の武器やコップが作られるようになった。紀元後の古代(5世紀から7世紀)からは装飾具の出土品も現れる。 レーガータールの入植跡は、6世紀から内市街地域で永続的な定住がなされるようになったことを推測させる。市内で最も古い建物であるパンクラティウス教会は10世紀末に建設され、おそらく985年に献堂された。リースボルン修道院の1059年の文書に、おそらく現在のイーザーローン関する既述がある。1124年には、Yslo という名の集落が司祭の財産目録に記されている。疑問の余地がない最初のイーザーローンの文献記録は1150年のもので、Lon と表記されている。Lon という名前は、「森」を意味する中低ドイツ語(ドイツ語版、英語版) lô(ch)(古高ドイツ語では lôh)に由来する。その後すぐに îse(r)n =「鉄」との組み合わせが現れる。これはかつてこの地域で鉄が産出していたことを示している。この街の名は「鉄の森」とも翻訳される。(Lô(ch) は北に位置する廃村オルトローン (Ortlohn) の名前の構成要素でもあるが、これはノルトローン(Nort=「北」)に由来する。) イーザーローン地域は、ミレニアムの替わり目頃に、ザウアーラントに多くのレーエンを所有していたケルン大司教の影響力下に入り、民衆がキリスト教化(ドイツ語版、英語版)された。世俗領主は主にヴェルル伯であったが、11世紀にベルク公によって奪われた。ベルク公はその後すぐにライン川に至るザウアーラント西部地域の広い範囲を支配した。1160年/1161年にアルテナ伯領(ドイツ語版)がベルク公領から分離され、13世紀初めにマルク伯領とリンブルク伯領(ドイツ語版、英語版)に分割された。これ以後 Lon 集落はマルク伯領に属した。1180年からはケルン大司教領もこの地域の領主となり、北東に位置するメンデンに至るまでのヴェストファーレン公領(ドイツ語版、英語版)を所有した。 これによりイーザーローンはマルク伯領の中で、レトマーテ近郊のリンブルク伯領との境界やメンデン近郊のケルン選帝侯領との境界近くに位置することとなった。ヴェストファーレン公がメンデンを要塞化したため、マルク伯もこの方面の国境防衛施設を強化するよう努めた。これはによってアルンスベルク伯やリンブルク伯に対して優位に立つことにもなった。ヴェストファーレン公はこれに対抗したのだが、都市を要塞化する権利を持たなかったマルク伯は、旧イーザーローン集落の高台にある樹木の生えていない石灰岩の岩山ビルシュタインに要塞を建設し、土塁と堀で囲むよう試みた。最初の市壁は、13世紀に木柵と土塁で築かれた。 1214年からイーザーローンは同名の首席司祭区の所在地となった。都市権はおそらく、アドルフ1世(ドイツ語版、英語版)治世下の1237年に与えられ、1240年頃には貨幣鋳造権も有した。エンゲルベルト1世(ドイツ語版、英語版)による都市権の確認は1278年になされた。
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