最初の定住者と名前の由来
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/23 04:48 UTC 版)
「ラウフェン・アム・ネッカー」の記事における「最初の定住者と名前の由来」の解説
ラウフェン周辺地域には、おそらく紀元前の時代から人が定住していたことが、わずかではあるが発掘された人骨により証明されている。この村は、現在のネッカー古橋、城跡の中州、レギスヴィンディス教会付近が古くから渡渉可能な地点であり、人や動物がこの場所を渡っていた。元々ネッカー川には渡渉可能な地点は少なく、最も近い別の渡渉箇所は数kmも離れている。また、その両側の岩山は、太古から渡渉地の監視所として、あるいは天然の要害として魅力的な場所であった。 2世紀から3世紀のローマ時代には、現在の市街中心部から約2km南東にあるブルンネンエッカーに農場の原型が造られ、瓶やコインが発掘されている。 西暦260年頃にローマ人が去るとアレマン人がこの地にやって来た(ブルンネンエッカーの泉付近から墳墓遺跡が発見されている)。500年頃にフランク人が入り込み、ラウフェンにマルティン教会を含む王領を築いたが、王領と侯領との比率はたびたび変化した。823年の文書には「聖マルティンの栄誉に捧げられたVilla Hlauppaにあるネッカーガウの教会」と記載されている。ここで記載された Hlauppaという名前(これが後に、Lauffa, Laufen, Lauffen と変化する)は、早瀬や流れの急な蛇行に面した場所によくある地名である(地理の項参照)。ラウフェンが面している急流は、大きな環状蛇行部の基部が大崩落して短縮してできたものである。
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