早熟さの現れ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 04:50 UTC 版)
「フェリックス・メンデルスゾーン」の記事における「早熟さの現れ」の解説
メンデルスゾーンが最初に公開演奏会に出演したのはおそらく9歳の時であり、この際に彼はホルンを伴う二重奏曲で室内楽に参加した。また彼は幼少期から多作な作曲家であった。思春期にあった彼の作品は、しばしばベルリンの知識人や裕福な両親が組織する私設の管弦楽団によって家庭で演奏された。12歳から14歳にかけて、メンデルスゾーンはそのような演奏会のために12曲の「弦楽のための交響曲」を作曲している。これらの交響曲は1世紀以上も無視され続けてきたが、現在では録音もなされ、演奏の機会もたまにある。最初に出版された作品は13歳で作曲した「ピアノ四重奏曲 第1番 ハ短調 Op.1」である。おそらく父アブラハムがアドルフ・マルティン・シュレジンガー(英語版)の会社に働きかけて、この四重奏曲の出版にこぎつけたと考えられる。1824年には、15歳でフルオーケストラを用いた「交響曲第1番 ハ短調 Op.11」を作曲した。 16歳で作曲した「弦楽八重奏曲 変ホ長調 Op.20」は、メンデルスゾーンがその力量を現した最初の作品として知られる。この「八重奏曲」と共に1826年に書かれたシェイクスピアの「夏の夜の夢」への「序曲」は、彼の初期作品では最もよく知られる(彼は1842年に劇付随音楽として、有名な「結婚行進曲」を含む「夏の夜の夢 Op.61」も作曲している)。この「序曲」は演奏会用序曲の中でもおそらく最初期の例である。このようにわざと舞台での演劇を伴わずに演奏会形式で演奏され、その中から文学的主題を想起させるという形式の楽曲は、以降のロマン派の時代に人気のジャンルとなっていった。 1824年にメンデルスゾーンは作曲家でピアノのヴィルトゥオーゾだったイグナーツ・モシェレスの指導を受けるが、モシェレスは日記の中で彼に教えることは少ししかなかったと告白している。モシェレスは近しい仲間、生涯にわたる友人となる。1827年にはオペラ「カマチョの結婚(英語版)」の初演が行われたが、メンデルスゾーンの生前には2度と上演されることはなかった。この上演の失敗により、彼は同ジャンルでのこれ以上の作曲のやる気をそがれてしまった。 音楽だけでなく、メンデルスゾーンは美術、文学、語学、哲学も学んでいた。特に西洋古典学に興味を示しており、1825年に家庭教師のヘイセ(Heyse)のためにプビリウス・テレンティウス・アフェルの喜劇「アンドロス島の女 Andria」を翻訳した。これに感銘を受けたヘイセは1826年に「彼の生徒 F****」(アスタリスクは原文ママ "Felix"など)の作品として出版している。この訳本によってメンデルスゾーンはベルリン大学で学ぶことができるようになり、1826年から1829年に同大学でヘーゲルの美学、ガンスの歴史学、リッターの地理学の講義に出席した。
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