日本球界復帰後
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2015年12月1日付で、新日鐵住金かずさマジックのコーチに就任した。背番号は37。翌2日に開かれた就任会見では、「(コーチとして)育てる選手が十分(な状態)であれば投げない。育成のために必要とされれば投げる」というスタンスで、コーチ兼任での現役続行を表明した。その一方で、「野球人生の最後に(新日鐵君津時代には実現できなかった)都市対抗での優勝を経験したい」として、プロ(NPB)へ復帰する可能性を否定している。 2016年3月12日、第71回JABA東京スポニチ大会予選リーグCブロック・対東京ガス戦の8回に、5番手投手として登板。自身16年振りの社会人野球公式戦登板で、1回無失点に抑えた。さらに6月5日の第87回都市対抗野球大会南関東第2代表決定戦・対JFE東日本戦では社会人最長となる6イニングを4安打無失点に抑え、チームを都市対抗出場に導いた。その一方で、NPBのレギュラーシーズン中には、BS12 Twellvで放送する古巣・ロッテの主管試合中継に解説者として出演する。また、同年の学生野球資格回復研修を受講した上で、翌2017年2月7日に日本学生野球協会より学生野球資格回復の適性認定を受けたことにより、学生野球選手への指導が可能となる。 2019年から新日鐵住金かずさマジックのサイトでは「投手」の表記が消え、専任コーチとなる。2020年の1月1日付で同チームの監督に就任した。背番号はプロ時代に自身が着け、前任監督の鈴木秀範も着けていた31を背負う。 2021年の第92回都市対抗野球大会の1回戦(対西濃運輸)に勝利し、監督として全国大会初勝利を挙げた。
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日本球界復帰後
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1987年に横浜大洋ホエールズで日本球界に35歳で復帰。かつての球威は鳴りをひそめたが、韓国球界でおぼえたチェンジアップと多種類の変化球による老練な投球をみせ11勝(4完封、107奪三振)をあげカムバック賞を受賞、1988年に10勝、1989年に8勝と大洋の左のエースとして活躍した。1989年8月4日には、横浜スタジアムで古巣の巨人を相手に13安打を浴びながらも完封勝利を挙げ、最多被安打完封のプロ野球記録となっている。この試合では、5回までに11安打を打たれていた。 1992年に大塚義樹との交換トレードで福岡ダイエーホークスに移籍。同年のシーズン途中にヤクルトスワローズに移籍。野村克也監督のもと、角盈男や金沢次男らとともに、ベテラン投手としてヤクルトのリーグ優勝に貢献した後、現役引退。 引退後は日本テレビ・福岡放送・ラジオ日本(1993年 - 1998年)→東北放送(2005年 - 2012年)で解説者を務め、韓国への縁から東亞日報グループの「スポーツ東亞」の日本駐在通信員も兼任。プロ野球マスターズリーグの札幌アンビシャスにも参加していた。2013年7月に、スポーツニッポン紙上で「我が道」を連載。 2015年11月より、同い年ながら1学年先輩の藤波行雄とともに母校・静岡商野球部の外部コーチに就任する。
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