日本における通過儀礼
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/09 22:01 UTC 版)
日本の中世・近世における武家階級では元服というものがあり、服装、髪型や名前を変える、男子は腹掛けに代えてふんどしを締める(褌祝)、女子は成人仕様の着物を着て厚化粧する、といったしきたりもあった。地域・社会によっては男子の場合、米俵1俵(60キログラムから80キログラム)を持ち上げることができたら一人前とか、地域の祭礼で行われる力試しや度胸試しを克服して一人前、日の出から日の入りまでに1反(およそ100平方メートル)の田植えができたら一人前などという、年齢とは別の成人として認められる基準が存在した例もある。女子の場合には子供、さらに言うならば家の跡継ぎとなる男子を出産して、ようやく初めて一人前の女性として周囲に認めてもらえる場合もあった。 江戸時代、会津や米沢の子は14 - 15歳になると飯豊山を登山し、標高1882メートル地点にある「御秘所(おひそ)」と呼ばれる難所(つるつるの岩場。手掛かりの鎖が付いたのは20世紀になってから)を越えられたら一人前の男として認められた(飯豊山神社も参照)。 男子の場合、明治の徴兵令施行から太平洋戦争が終結した1945年までは、「国民皆兵」の体制が取られ、徴兵検査がその通過儀礼となった。徴兵検査で一級である甲種合格となることは「一人前の男」の公な証左であり憧れの対象でもあった。徴兵検査により健康状態や徴兵上の立場が明らかにされることは、当事者の社会的・精神的立場にも影響を与えた。現役兵役に適さないとされる丙種合格であった山田風太郎は、自らを「列外の者」と生涯意識する要因になったと述べている。1938年には結核による丙種合格判定も要因の1つとなって日本犯罪史に残る大量殺人事件・津山事件が起きている。しかしながら、身内レベルでは、入営を免れる丙種合格を望む風潮もあり、また「甲種合格と認められつつ籤逃れ(入営抽選漏れ)がよい」と望む考えも暗にあった。昭和時代での甲種合格率は3分の1前後、甲・乙に満たない丙種以下の割合は、時期により変動するが、15 - 40%程度であった。入営後は新兵教育という名目のいじめやしごきという形で通過儀礼がおこなわれた(詳細は兵 (日本軍)を参照)。 現代の日本においては、幼少時の七五三や、老年期の還暦や喜寿の祝いなど、一定の年齢に到達することで行われる通過儀礼は残っているものの、「その人物を地域社会が一個の成人として認める通過儀礼」が過去ほど明確には意識されてはいない。18歳で普通自動車の運転免許証の取得が可能になる、20歳で飲酒・喫煙が許され選挙権(2016年以降は18歳)、25歳で被選挙権の行使が可能になるなど、法律により一定年齢に達することで自動的に権利が与えられるものはあるが、儀式としては成人式以外に通過儀礼と呼べるものはない。
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