日本におけるサンバ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 05:54 UTC 版)
「サンバ (ブラジル)」の記事における「日本におけるサンバ」の解説
日本では、戦前にタンゴ、戦後にマンボ、ルンバ、チャチャチャなどのラテン音楽が紹介され、昭和20〜30年代にラテン歌謡が流行した。しかしブラジルが南米で唯一のポルトガル語圏であること、ブラジルへの渡航距離や高額な費用などの理由により、サンバはあまりきちんとした形で紹介されたことはなかった。なお、日本の歌謡曲には「白い蝶のサンバ」や「お嫁サンバ」、「てんとう虫のサンバ」や「マツケンサンバ」などと、タイトルにサンバと明記される曲もあるが、曲調やメロディ、リズムなどの点でブラジルのサンバとは大きく異なる。場合によってはマンボやルンバのリズムや曲調のものもある。これは日本にラテン音楽が紹介された時にそれらがすべて混同されて、そのイメージが現在にも影響しているといわれる。 日本でサンバのイメージが定着し始めたのは、1960年公開のブラジル・フランス合作映画「Orfeu Negro(黒いオルフェ)」(マルセル・カミュ監督)以降といわれる。この映画の音楽はボサノヴァが中心だったが、リオのカーニバルという世界屈指の舞踏イベントも映画を通じて日本に知られ、サンバとボサノヴァの境界の曖昧さもあり、サンバも一緒に日本に知られるきっかけとなった。1960年代前半に世界を席巻したボサノヴァ・ブームの最中、ボサノヴァ興隆の祖であるスタン・ゲッツがアルバム「ジャズ・サンバ」を発表するなど両ジャンルの親和性に好意的なジャズ・プレーヤーが次々とサンバも日本に伝播させていく。 渡辺貞夫ら一部の日本人ジャズ・ミュージシャンもボサノヴァを演奏することが増え、合わせてサンバも紹介されていった。その後70年~80年代にかけてサンバのレコードが日本でも発売されるようになり、一部の熱心な音楽ファンによってリスナーが増えた。69年に長谷川きよしが「別れのサンバ」という曲をレコーディングして小ヒットさせた。 南青山にある「プラッサ11(オンゼ)」は、日本における最初のサンバハウス(サンバ演奏がライブで聴けるバー、レストラン)といわれ、これまでに多くのブラジル人ミュージシャンや日本人によるサンババンドが演奏し、他にもサッシペレレなど複数の店舗がサンバが聴ける店として存在している。 80年代には、神戸まつりなど日本各地のイベントでブラジルのカーニバルを模倣したパレード形態のサンバが存在し、1981年に浅草で始まった浅草サンバカーニバルを筆頭に、静岡のシズオカ・サンバカーニバル(5月)、神戸の神戸まつり(5月)、沖縄の沖縄サンバカーニバル(11月)など、多くの地域でサンバイベントが行われている。1982年にはアルシオーネ(ポルトガル語版、英語版)の楽曲「愛のサンバは永遠に」を伊藤愛子が日本語詞で歌唱し紹介した。
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