日本での曲技飛行と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 09:38 UTC 版)
「フランク・チャンピオン」の記事における「日本での曲技飛行と死」の解説
チャンピオンが初めて日本を訪れたのは1917年5月であった。荻田常三郎の遺志を継ぎ、翦風飛行学校設立を目指す実業家・熊木九兵衛の招きで、八日市飛行場のあった滋賀県神崎郡八日市町(現在の同県東近江市)を訪れ、歓迎会では「将来の日本飛行界のため、この八日市での事業にぜひ貢献したい」と述べた。日本では、チャンピオンは足を痛めていたため、はじめスティンソンの機関士として働いた。その後、この地で翦風飛行学校の教官になることとなり、学校設立の資金稼ぎのために各地で飛行会を企画する。まず、大阪・東京間の無着陸飛行を試みたが、四日市、浜松と不時着。 「八日市東映劇場#芝居小屋の時代」も参照 1917年10月30日、ブレリオ式単葉機操縦の第一人者として高知県土佐郡朝倉村(後に高知市に編入)の朝倉練兵場(現在の高知市若草町)で開催された飛行会に登場。鬼頭良之助が会を主催し、熊木はチャンピオンの乗る翦風号(せんぷうごう)の管理に当たった。この日は快晴で風もなく、午前中は高度3,000フィートで曲技飛行を披露。10万人の観衆が歓声を上げた。同日15時7分、再び出発の合図をして飛び立ったが、十数分後、風圧のために左の翼が折れ、4,000フィート(1,200メートル)の上空から墜落。チャンピオンは観客の被害を抑えるため、人気のない方向へ操縦したとされる。鴨田村字神田の田地で翦風号のエンジンの下敷きとなり、死亡した。11月1日正午から高知県公会堂で盛大な葬儀が行われ、県知事の柿沼竹雄らが参列。葬列は数万人に見送られた。 @media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .mod-gallery{width:100%!important}}.mw-parser-output .mod-gallery{display:table}.mw-parser-output .mod-gallery-default{background:transparent;margin-top:.3em}.mw-parser-output .mod-gallery-center{margin-left:auto;margin-right:auto}.mw-parser-output .mod-gallery-left{float:left;margin-right:1em}.mw-parser-output .mod-gallery-right{float:right}.mw-parser-output .mod-gallery-none{float:none}.mw-parser-output .mod-gallery-collapsible{width:100%}.mw-parser-output .mod-gallery .title,.mw-parser-output .mod-gallery .main,.mw-parser-output .mod-gallery .footer{display:table-row}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div{display:table-cell;text-align:center;font-weight:bold}.mw-parser-output .mod-gallery .main>div{display:table-cell}.mw-parser-output .mod-gallery .gallery{line-height:1.35em}.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div{display:table-cell;text-align:right;font-size:80%;line-height:1em}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div *,.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div *{overflow:visible}.mw-parser-output .mod-gallery .gallerybox img{background:none!important}.mw-parser-output .mod-gallery .bordered-images .thumb img{outline:solid #eaecf0 1px;border:none}.mw-parser-output .mod-gallery .whitebg .thumb{background:#fff!important}1917年10月30日、高知県土佐郡での飛行会で撮影された写真 午前の飛行前、主催者の鬼頭良之助(左)と握手をするチャンピオン 破損した翦風号 右端が鬼頭、中央の3人は高知新聞記者で、各人がチャンピオンの遺品を持つ チャンピオンは生前、墜落事故を起こした際に、こういう事故は多々あるものなのかと尋ねられると、パイロットの人生に事故は一度きりだと答えたという。高知市の永福寺には、最後の飛行会を主催した鬼頭良之助がこの寺の信徒であったことから、チャンピオンの位牌が安置されている。高知市柳原には後に「フランクチヤムピオン之碑」が建立された。 関勉は1996年12月8日に高知県安芸郡芸西村で発見した小惑星に「チャムピオン」と名付け、「[フランク・] チャムピオンは永遠に宇宙を飛び続ける」と述べている。
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