新規感染者ゼロになった八丈小島
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 10:37 UTC 版)
「八丈小島のマレー糸状虫症」の記事における「新規感染者ゼロになった八丈小島」の解説
1963年(昭和38年)8月、寄生虫学者の森下薫は東京寄生虫予防協会による糸状虫症(フィラリア症)予防作業の一環として同協会の稲見一清らとともに八丈島および八丈小島を訪れた。この訪問は八丈島でのバンクロフト糸状虫症の調査が主な目的であったが、以前より八丈小島のマレー糸状虫症に興味を持っていた森下は、是非この機会に八丈小島へ渡ろうと計画していた。しかし八丈小島への渡船は昔と変わらず波や風が大きな障害となっており、八丈島の滞在中に出航ができるのか気をもんでいたが、8月11日の朝には風は強いが渡れそうとの連絡が入り、急いで八重根港へ向かって稲沢や東京都虫疫課職員らと漁船へ乗り込み、八丈小島へ向かった。 1時間ほどで鳥打の船着場に到着し、集落への道を登り始めると、ちょうどこの期間に調査に来ていた伝研の林滋生が駆け降りて来て森下らを出迎え、研究室となっている鳥打小中学校へ案内された。今期は林をリーダーとして伝研の山本久、水谷澄のほか、夏季休暇中の慶応医学部の学生3名を加えた計6名で2週間にわたって調査を行っていた。森下が訪れた1963年(昭和38年)は日本各地で急速にフィラリア対策が進んでいた時期であり、八丈小島でもこれまでと同様にスパトニンの服用や媒介蚊の駆除が継続されていた。林によれば1963年の時点の鳥打の住民70名の検査で未だ14名にミクロフィラリアが見つかり、予防作業が思うように進まない現状を語った。その一方で、見方を変えれば研究材料にはまだ事欠かないということで、森下が訪れた時には媒介蚊であるトウゴウヤブカを採集し、それらを解剖して感染した蚊の発育状態を調べる仕事を行っていた。この時、伝研メンバーによる八丈小島での研究を見学した森下は後年、次のように述べている。 ところでこの人達の目的は何かというと、結局は糸状虫予防対策事業の一環としてこの島の同虫をなくすことにあるのだが、何分日本では他の地域にはないマレー糸状虫であるのでなくしてしまうのは惜しいという思いはあるものの、そうもゆかないのでそれまでに精々研究すべきことはやって置こうということだった。 — 森下薫 『ある医学史の周辺』より、引用 これらの研究と並行して伝研メンバーは保虫者に対するスパトニン服用を説得することも大きな仕事でもあった。発作熱の副作用を嫌う一部の人たちへの説得は依然として骨の折れることであったが、その後急速に保虫者は減少し続け、1965年(昭和40年)には八丈小島全体のミクロフィラリア保虫者の割合が0パーセント台まで下がり、そして1968年(昭和43年)の検査では保虫者はゼロ、島民の誰からもミクロフィラリアが検出されなくなった。島民や伝研メンバーらの長い努力が報われ「八丈小島のバク」と呼ばれた奇病は姿を消したのである。 これで八丈小島の人々は何世代も続いたバクの苦悩からはじめて解放され、島での明るい生活、島での新しい未来が始まるはずだった。
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