新庁舎と耐震・防火設計
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「旧横須賀鎮守府庁舎」の記事における「新庁舎と耐震・防火設計」の解説
二代目の横須賀鎮守府庁舎は、主体部は鉄骨造であった。建物の外壁については鉄骨に鉄網セメントガン吹き付けの上にタイル張りを行い、内壁は鉄網モルタル及び漆喰塗りであった。そして屋根と床スラブについては鉄筋コンクリート造であった。つまり二代目の横須賀鎮守府庁舎では、鉄骨造と鉄筋コンクリート造を組み合わせた建築が採用された。 日本初の鉄筋コンクリート造の建物は、海軍に所属した土木技師であった真島健三郎によって設計された、明治38年(1905年)に竣工した佐世保海軍工廠汽罐室及び賄所であった。その後各地の海軍施設では鉄筋コンクリート造の建造物が建てられるようになっていた。真島は大正12年(1923年)4月には海軍省の建築組織の技術者を統括する海軍建築局長となったが、その直後には関東大震災が発生し、真島は震災後の耐震防火建築による海軍関連施設の復旧の総責任者となった。真島は日本最初の鉄筋コンクリート造の建物を設計したことからもわかるように、当初は鉄筋コンクリート建築の推進者であったが、海軍建築局長となった頃には鉄筋コンクリート造の建物の耐震性に疑問を持つようになっており、鉄骨造による柔構造によって耐震性の向上を図ることを提唱するようになっていた。当時耐震設計としては真島以外に東京帝国大学工学部建築科教授であった佐野利器は、柱や梁など建物の接合部分を強化し、地震動による変形を避ける剛構造を提唱しており、真島と佐野の間では柔剛論争と呼ばれる論争が繰り広げられた。 真島は大正13年(1924年)の土木学会誌上で柱や梁を鉄骨構造とし、外壁及び内壁は薄い鉄筋コンクリートか鉄網モルタル吹き付けの軽めの構造とする一方、床屋根は鉄筋コンクリートを用いるという耐震建築について発表した。そして大正15年(1926年)の土木学会誌上で「重層架構建築耐震構造論」という、柔構造による耐震建築の概要と耐震建築の計算例を発表した。現在、在日米海軍司令部庁舎となっている旧横須賀鎮守府庁舎では、改修工事に伴い平成14年(2002年)と平成16年(2004年)に調査が実施されたが、調査の結果、在日米海軍司令部庁舎の構造は真島が著した「重層架構建築耐震構造論」における計算例とよく一致しており、真島の柔構造論に基づき、二代目の横須賀鎮守府庁舎が建設されたことが明らかとなった。また伝えられている通り、建物の外壁は鉄骨に鉄網セメントガン吹き付けの上にタイル張り、内壁は鉄網モルタル及び漆喰塗りで、床スラブについては鉄筋コンクリート造であると見られることが判明し、これもまた真島の柔構造理論に良く合致している。 また二代目の横須賀鎮守府庁舎では、窓は全て単窓の上げ下げ窓となっている。これもやはり真島の柔構造理論に基づき、外壁面の強度を均一化することを目的として選択されたと考えられる。このように大正15年(1925年)に再建された横須賀鎮守府庁舎は、真島健三郎の柔構造理論に基づき建設された耐震建築であり、関東大震災後の耐震構造理論を採用した最初期の建造物の一つと考えられる。そして二代目の横須賀鎮守府庁舎の後、昭和初期には横須賀鎮守府管内で旧横須賀海軍工廠庁舎(現米海軍横須賀基地下士官クラブ)、旧横須賀海軍病院庁舎および兵舎(現米海軍横須賀病院庁舎及び病棟)などといった建物が、真島の柔構造理論に基づいて建設された。 そして関東大震災では地震動による建物の被害とともに、地震後に発生した火災による鉄骨造の建物の耐火性が大きな問題となり、震災後には鉄骨をコンクリート等の耐火物で包む対策が採られるようになった。再建された横須賀鎮守府庁舎でも鉄骨を耐火物で厚く覆うという工法を採用し、耐火性にも配慮した建築がなされた。
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