新上り線橋梁の建設
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「富士川橋梁 (東海道本線)」の記事における「新上り線橋梁の建設」の解説
新しい橋梁の基礎工事は、ニューマチックケーソン工法により井筒を沈める工事で実施された。日本国有鉄道新橋工事事務所監理、白石基礎工事施工により1954年(昭和29年)11月1日着工、1955年(昭和30年)6月末竣功となった。 桁の製作は、第1連を大阪安治川口の汽車製造が、第2連と第3連を東京芝浦の横河橋梁製作所が担当した。汽車製造の製作した桁は大阪港から清水港まで船舶輸送され、そこから26キロメートルの距離を陸送して現地に到着したが、横河橋梁製作所の製作した2連の桁は、鉄道の貨車での輸送が行われた。もともと鉄道輸送が考慮されて設計されたものではなく、船舶輸送を考慮していたが、主桁の高さが車両限界に収まることから、費用と時間の削減を図るために貨車で運ぶことになった。国鉄シキ60形貨車の梁を取り外し、廃橋梁の桁を荷受け梁として設置して、主桁の部材2個を挟み込むように搭載した。1連分の主桁は34分割され、1個の部材は長さ13.15メートル、幅0.55メートル、高さ4.08メートル、重量17トン弱で、1回に2両編成で計4個ずつ9回の臨時列車で品川駅 - 岩淵駅(現富士川駅)の間の143キロメートルを約9時間かけて輸送し、成功した。 桁の架設は、日本国有鉄道新橋工事事務所監理、横河橋梁製作所施工により実施された。岩淵側の陸上部において桁を組み立て、橋脚中間に架設用のベント(仮の支柱)を設置して橋脚とベントの上に移動用ローラーを設置し、全長191.4メートルの桁を1回に約32メートルずつ川の方向へ引き出して架設が行われた。 富士川橋梁新上り線では、従来の単純トラス桁と異なり、長い連続桁を採用したため、温度変化によって桁が大きく伸縮して軌道に悪影響を与えることが懸念された。夏と冬の温度差は最大で摂氏60度に達するとされ、計算上の伸縮量は桁1連あたり約140ミリメートルに達することになる。そこで、レール同士の間に伸縮可能な継目を入れて影響を緩和することにした。伸縮継目を使用すると、使用しない場合に比べて価格は高価でありレールの交換も困難となるが、ロングレールを採用することができるようになり、保守労力が少なく乗り心地が良く、桁に対する衝撃が少なく騒音も減るなどのメリットがあり、富士川橋梁においては伸縮継目を用いてロングレール化することが有利であると判断された。伸縮の影響が出るのは連続桁同士の間の2か所と、連続桁と橋台の間の2か所であるが、橋台との間は影響が比較的少ないため、連続桁同士の間2か所に伸縮継目を設置した。伸縮継目の設置は富士川橋梁が日本初であり、以降ロングレールの始終端に用いられるようになって、やがて東海道新幹線においても採用されることになった。また、架線を支える架線柱は一般に橋脚に設置されるが、富士川橋梁新上り線は支間63.5メートルであり、一般的に最大の架線柱間隔とされる50メートルを超過する。この条件下で、強風に晒される橋の上で架線が横に偏倚する量を抑えるために、耐風架線としてダブルメッセンジャーコンパウンドカテナリ架線が開発されて適用された。 1956年(昭和31年)3月5日に切り替えられて、急行「霧島」の通過から新上り線の使用が開始された。続いて3月25日に旧上り線を新下り線に切り替えて、旧下り線の橋梁が廃止となった。完成を記念して、上り線橋梁東京方には当時の国鉄総裁十河信二揮毫による銘板が取り付けられた。架け替え工事の総予算は3億2000万円であったが、実績額は不明である。
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