文学における写生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 04:30 UTC 版)
明治時代を代表する俳人で歌人の正岡子規は、西洋美術に由来する「写生」(つまりスケッチ)の概念を文学に適用し、俳句・短歌および文章の近代化を図った。子規が西洋美術の概念としての「写生」を知ったのは1894年(明治27年)、知人の画家・中村不折に教わってからである。「写生」を知った子規はこの年の秋、手帖と鉛筆を持って毎日のように戸外に出かけ写生による句を作り、この方法が文学においても有効であることを悟った。1897年(明治30年)、子規は自身のグループ「日本派」に属する俳人たちの句を論じた『明治二十九年の俳句界』で「写生」の語を意識的に用い、以後は生涯に亘って写生論を説いた。 子規は写生を説く一方で空想による句も否定しておらず、また平凡な句を作りがちになるという写生の側面も認めており、写生を必ずしも万能の方法として考えていたわけではない。しかし当時の俳句界で主流を占めていた宗匠俳句における、理屈や機知、小主観からなる陳腐な俳句(子規はこれらを「月並調」として批判した)から脱するのには有効な手段だと考え、その後さらに、短歌、散文においても同様の方法を適用していった。 子規の没後、その高弟の河東碧梧桐は写実主義の影響を受け、人為を廃して対象に迫るべきとする「無中心論」を提唱、定型も人為であるとして退けるようになってゆく(新傾向俳句運動)。碧梧桐の活動はその後自由律俳句へと繋がってゆくが、これに対しもう一人の高弟高浜虚子は危機感を覚え俳壇に復活、定型・季題を重視しつつ子規の写生論を継承し、俳句の定型を生かす方法としての「客観写生」を説く。「客観写生」はその後の「花鳥諷詠」の理念とともに虚子の俳句唱導の両輪となり、近代俳句の普及・大衆化に大きな役割を担うことになる。 一方、短歌においては、子規の写生論は伊藤左千夫、島木赤彦、斎藤茂吉らアララギ派の歌人たちによって継承され、単なる方法としてのリアリズムに留まらず、独自の象徴的な力学として再解釈され発展していった。しかし「アララギ派」が指導理論として用いた「写生」は「写実」との混同が多くなり、このため今日の短歌においても「写生」は「写実」と同意義に用いられることがしばしば見られる。 以上の短歌・俳句と並んで、子規は散文においても写生論を導入し、文章を不必要に飾り立てず、事物や出来事をあるがままに書くことを唱え、これはのちに「写生文」と呼ばれるようになった。子規の写生文運動は『ホトトギス』誌を中心に展開され、1900年には写生文の文章会「山会」の開催を始める。夏目漱石のデビュー作『吾輩は猫である』ははじめこの「山会」において写生文として発表された作品である。写生文運動は漱石や虚子、伊藤左千夫のほか、長塚節、寺田寅彦、鈴木三重吉、野上弥生子など多くの作家・文章家を生み出しており、また各種の学校での作文教育にも影響を与えている。
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