文学における寵臣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/06 16:30 UTC 版)
寵臣は多くの同時代人たちの議論の的となったが、議論の中には参加者の身を危険にさらす類のものもあった。寵臣を主題とする英語の戯曲は数多くあるが、ギャヴィストンを主人公とするクリストファー・マーロウの『エドワード二世』、そしてベン・ジョンソンの『シジェイナスの失脚(英語版)』が最も有名である。後者については、この戯曲が同時代のジェームズ1世の宮廷に対する揶揄を含むものだと同業のライバルたちが騒いだために、「教皇支持と大逆罪」の容疑で作者が枢密院に召喚される事態に発展している。この劇の主人公であるセイヤヌスがティベリウス帝の下で目覚ましい昇進を遂げる様子についてはタキトゥスによって生き生きと描かれており、そのため当時ヨーロッパ中で多くの文芸作品の主題となっていた。シェイクスピアはより慎重で、寵臣になろうとする野心を無残な形で打ち砕かれるフォルスタッフと、『ヘンリー八世』に登場するウルジー枢機卿を除けば、作品の中で寵臣に大きな役割を与えていない。 自身もほぼ寵臣にあてはまったフランシス・ベーコンは、その著書『随筆集』の「友情について」の章で、エリザベス朝の政治家の出世について次のように叙述した。 偉大な国王や君主が、われわれの論じている友情の効果を、実に高く評価しているのを見るのは意外である。彼らはしばしば自分の安全や王位を危険にさらしても、それを買い求めるほどである。それというのも王侯は、自分の身分と臣下や召使のそれとがかけ離れているので、この友情の効果を収めるには(自分にはそれができるために)2、3の者を引き上げて、いわば自分の仲間とし、ほとんど対等の者とせずにはいられないが、そうすることはしばしば面倒なことにもなるからである。近代の言語はこういう人々に対して、寵臣(favorites)とか側近(privadoes)とかの名称を与えている。…またわれわれは、こうしたことが無気力な、怒りやすい王侯によってばかりでなく、かつて君臨した最も賢明で慎重な王侯によってもなされたことを明らかに知っている。彼らは随従者の幾人かを同列に扱い、平民の間で受け入れられている言葉を用いて、互いに友と呼び、他の人々にも同様に自分たちをそのように呼ぶことを許した。 ジョージ3世の家庭教師だったことが機縁となって首相にまで上り詰めたビュートについても、1844年マコーリー卿が次のように記述している、「彼は寵臣であり、寵臣という存在はその国で常に憎まれるものである。フェルトンの握った短刀の刃先がバッキンガム公爵の心臓に達して以来、政府首脳の座を寵臣が占めたことはこの時までなかった」。
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