文学における影
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/30 09:27 UTC 版)
宗教的・心理学的に、影が個人にとって重要な何かだということは、文学のなかでも取り上げられている。日本において、戦国時代の武将などに使われた「影武者」という概念は、本体を守るために、二次的な模造者を代理的に立てることであるが、黒澤明の『影武者(1980年)』が示すように、影が本体と交替する可能性を持つ。 隆慶一郎の『影武者徳川家康』では、関ヶ原緒戦で暗殺された家康本人に代わって、影武者世良田次郎三郎が活躍するが、影の方が実像の家康よりも生き生きとして才知に満ちている。戦国時代の天下人であった織田信長、豊臣秀吉、そしてここで述べた徳川家康の性格や、生き方を考えるとき、互いのあいだの影の投射や受影の現象が交錯していた。どれだけ深く無意識と自我のあいだの調整を取れたかが、武将や政治家たちの運命を決めたとも、ユング心理学的には言える。 影が人間にとっていかに重要な存在かということは、ドイツの作家、アーデルベルト・フォン・シャミッソーの『影をなくした男』の物語に示されているとも言える。ペーター・シュレミールは、無尽蔵に金貨が手に入るという魔法の誘惑に負けて、悪魔に自分の影を売り渡す。しかし、富を手に入れたシュレミールは、逆に「影」がいかに重要なものか、それが彼自身の存在の意味にも関わるかを覚る。影は、人間の自我に陰翳を与え、立体的な存在として支えるのである。
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