文学における法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/04/29 19:06 UTC 版)
「文学における法」という観点は、どのように文学において法的状況が表現されているかに関心を寄せるものである。通常、そこにおいては、作家が思い描くことのできた法に反映される独自の観点に高い価値が置かれる。すなわち、作家は、法曹に対して、人間の在り方を教えるための教訓を表現しており、法は、そのような教訓が反映されたものと考えられている。このような研究においては、フランツ・カフカ、アルベール・カミュ、ハーマン・メルヴィル、フョードル・ドストエフスキー、チャールズ・ディケンズの作品が多く引用される傾向にある。すなわち、これらの作家における作品を根拠にして、文学で示される虚構の状況は、裁判を目の前にした個人の政治的で社会的な状況を反映したものであると主張される。例えば、ロバート・ワイズバーグは、「文学における法」という観点が豊かな可能性を提供すると考えている。彼は、幾つかの文学作品が読者に対して法的状況を指示することができないとしても、多くの名著が人間の在り方を指し示していることを主張している。 「法と文学」研究の代表的支持者であるリチャード・ワイズバーグは、ジェイムズ・ボイド・ホワイトに倣い、法的話題を議論する手段として、文学を用いることに固有の価値を見出している。しかし、ホワイトが批評的な能力を鍛えるという意味で文学に価値を置くのと異なり、リチャード・ワイズバーグは、文学が個人と他者とを結び付ける社会的・政治的誘因となり、特に法を扱う文学作品において、そのような傾向が顕著である意味で文学に価値を置いている。すなわち、リチャード・ワイズバーグにとって、そのような文学作品は、人間の在り方に関する正当な結論を示しているとされる。 このようにリチャード・ワイズバーグの関心は、文学を利用することで修辞的な表現力を鍛えることに力点を置くホワイトの見解とは異なる。リチャード・ワイズバーグは、むしろ、社会制度と法的規範を批判する手段として文学を用いようとする。彼にとって、それが文学作品の主要な目的であり、修辞的表現法を学ぶということは、ホワイトほど重要視されない。
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