文学における灯籠仏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 08:18 UTC 版)
文学では川柳において、宝暦8年(1758年)の「川柳評万句合」で「かるい事かな、かるい事かな」の前句に続いて、「起請よりとうろう仏で深くなり」と詠んでいる。川柳の句集である『誹風柳多留』(はいふうやなぎだる)には燈籠仏を詠んだものが二首あり、文政6年(1823年)の七十八編では「とぼされもせず持ち上げるとうほ仏」、文政8年(1825年)の八十七編では「燈籠仏何の願ひか後家もちあげ」がある。 また、文政8年(1825年)に発演された鶴屋南北『東海道四谷怪談』の除幕における台詞に燈籠仏が登場する。除幕では薬売りの直助が主人公・お岩の妹・お袖を恋慕し、身分違いのお袖を口説く。お袖は身分の軽重を問題にするが、これに対する直助の台詞に「何だナ、軽い重いのと、灯籠仏様へ願かけでもしやアしまいし」と「灯籠仏」が登場する。この台詞は、役者も意味を理解せずに使用していたという。 燈籠仏は歌舞伎や川柳において登場することから江戸においても知名度があり、その背景には江戸における出開帳があったと考えられている。江戸における燈籠仏の出開帳は記録に残る限りでは明暦2年(1656年)、享保7年(1722年)、宝暦元年(1751年)、文化12年(1815年)、天保7年(1836年)の五回が確認されている。また、嘉永元年(1848年)の「燈籠尊御参内御上京之記」(『善光寺文書』)では、これとは別に幕末には毎年江戸や京都における開帳が行われてたことが記されている。 地元においても天保6年(1835年)の「甲府柳町始の燈籠仏御開帳御通達にかかる回状」(「甲州文庫」)等によれば、幕末には甲斐国内においても出開帳が行われていた。また、幕末期に甲州弁で記された俳書「へえけえ一分集へえだああら百韻」では「燈籠仏う持ち挙げてみず」と詠まれている。
※この「文学における灯籠仏」の解説は、「甲斐善光寺」の解説の一部です。
「文学における灯籠仏」を含む「甲斐善光寺」の記事については、「甲斐善光寺」の概要を参照ください。
- 文学における灯籠仏のページへのリンク