教育・研究の発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 01:54 UTC 版)
「横浜高等商業学校」の記事における「教育・研究の発展」の解説
初代校長となった田尻常雄(1923年〜1943年在任)は東京高商出身で長崎高商第4代校長から横浜高商創立準備委員長に転じた人物で、開校から20年(すなわち本校の存続期間の大半)にわたって校長を務めた。教育方針としては先行の東京高商に倣ってゼミナール制が取られ、また商業論・商品学・商業英語・貿易実務などの実践科目に加え、経済原論・金融論・財政学など経済学科目も選択科目とされ、学理研究にも重点が置かれている。さらに1929年(昭和4年)には修業年限1年の「貿易別科」(南米貿易科)が設置され、スペイン語や農業実習など南米移住・南米貿易の指導者の育成が進められた。 横浜高商は第1回卒業生を出した1927年以降しばらくの間、金融恐慌に端を発する不景気により困難を極める就職状況に直面するが、田尻校長は財界人との太いコネクションを利用して卒業生の就職斡旋に力をふるい、第1〜8期(1927年〜1934年度)卒業生の7割程度が企業・銀行に就職している。横浜高商の名声が高まるにつれて、首都圏で高商をめざす者のうち優秀な生徒がここに集中するようになり、既存の東京商大予科・商学専門部の衰退を招き、両課程の廃止問題をめぐり同大学の籠城事件(1931年)を引き起こす背景となった。 教育の発展と並行して研究活動も拡充された。設立2年後の1925年10月に設置された研究所は1941年1月には「太平洋貿易研究所」に改組されて太平洋地域を中心とする資料の整理・研究をすすめた。研究団体としては1929年に「商学会」が発足して機関誌『商学』が創刊されたほか、1936年11月には「貿易研究会」が発足してブロック経済の下での各地域の貿易動向に関する研究を進め、戦時下の1942年5月発足の「太平洋貿易研究会」に発展した。 課外活動としては同じく横浜に所在する官立高等教育機関で、文・理の相互補完関係にあった横浜高工とスポーツの交流戦が盛んに行われ、特に野球の対抗戦は「浜の早慶戦」と称されて学生・市民の人気を得た。
※この「教育・研究の発展」の解説は、「横浜高等商業学校」の解説の一部です。
「教育・研究の発展」を含む「横浜高等商業学校」の記事については、「横浜高等商業学校」の概要を参照ください。
- 教育研究の発展のページへのリンク