教授の職と再婚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 09:45 UTC 版)
「ジェイムズ・ラッセル・ローウェル」の記事における「教授の職と再婚」の解説
ローウェルは従兄のジョン・アモリー・ローウェルからの招待で、権威あるローウェル・インスティチュートで講義を行うよう求められた。これは一家のコネがあったためだと考えた者もいたが、ローウェルを鬱の状態から助け出そうという試みでもあった。ローウェルは「イギリスの詩人」を演題にすることとし、友人のブリッグスには「大衆がその中で生きることを認めなかった者によって受けた傷がもとで」死んだ詩人の復讐を行うと告げていた。12回シリーズで企画された講義の第1回目は1855年1月9日だった。ローウェルは12月までにその講義の5回分を書いていただけだったが、最後の瞬間の霊感に期待していた。最初の講義はジョン・ミルトンについてであり、観客席は売り切れていた。その日の午後にもう一度講義を行う必要があった。大衆を前にして話をしたことがなかったローウェルだったが、これらの講義で称賛された。フランシス・ジェームズ・チャイルドは、典型的な「ひねくれ者」と見られていたローウェルが「彼の衝動と才能に反発して真面目であり続けた」と言っていた。その連続講義が進行中に、ローウェルはハーバードの現代言語学でスミス教授職を提案された。それはロングフェローが辞めた職であり、年給は1,200ドルだった。ローウェルが応募したことはなかった。職務明細はロングフェローの後で変化しており、直接言語学を教える代わりに、その部門を監督し、自分の選んだ話題で年間2コースの講義を行うことになった。ローウェルはこの指名を受諾し、海外で1年間勉強するという条件をつけた。その年6月4日には出発した。娘のメイベルはフランシス・ダンラップという女性家庭教師に預けた。ローウェルはル・アーヴル、パリ、ロンドンを訪れ、ストーリー、ロバート・ブラウニングとその妻のエリザベス・バレット・ブラウニング、レイ・ハント等友人と時間を過ごした。しかし、海外の時間の主要部分は言語学の研究にあて、特に難しいと思ったドイツ語を勉強した。「混乱させる名詞の性! 私が死んだら、墓石には der, die, das のために死んだと彫ってほしい。それを理解できたからではなく、理解できなかったからだ」とぼやいていた。 1856年夏にはアメリカ合衆国に戻り、カレッジの仕事を始めた。その教授職の終わり近くに、当時ハーバードの学長だったチャールズ・W・エリオットが、ローウェルには教えることについて「生まれつきの性向がない」ように見えると言った。ローウェルはそれに同意したが、20年間その職を保ち続けた。語源学を教えるよりも文学を教えることに注力し、学生たちが言葉の技術よりも詩の音、リズム、流れを楽しむことを学ぶのを期待した。その方法を要約して、「真の学問は物事が存在することを知るのではなく、それが意味することを学ぶのである。それは記憶ではなくて判断である」と言っていた。この時代のローウェルはまだ失った妻のことを悲しんでおり、エルムウッドを避けて、ケンブリッジのカークランド通りに住んでいた。その地域は教授たちの道と呼ばれていた。ローウェルはそこに娘のメイベルおよび家庭教師のフランシス・ダンラップと共に1861年1月まで住んでいた。 ローウェルは最初の妻マリア・ホワイトが死んだ後に再婚しないと決めていた。しかし、1857年、友人たちを驚かせたことに、フランシス・ダンラップと婚約した。ダンラップについて多くの者は地味で魅力が無いと言っていた。ダンラップはメイン州元知事ロバート・P・ダンラップの姪であり、ローウェルの最初の妻の友人で元は裕福だったが、彼女とその家族は経済状態が思わしくなくなっていた。ローウェルとダンラップは1857年9月16日に結婚した。ローウェルの兄が式を取り仕切った。ローウェルは「私の2回目の結婚は私の人生の中でも賢明な行動であり、『私』が確信している限りでは、私の友人たちが私に同意してくれるまで待つことができる」と記していた。
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