推古天皇
576年に敏達天皇(異母兄)の皇后広姫の薨去にともないその後添えとなった。
夫の敏達天皇が疱瘡の病で崩御し、ついで皇位についた用明天皇もまた疱瘡の病で崩御したので、587年の頃、崇峻天皇が用明天皇の後をついで皇位についた。
しかし、592年蘇我馬子の命を受けた東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に崇峻天皇は暗殺されてしまう。
この後皇位をめぐって議論がたたかわされ、額田部皇女が推挙されるに至ったが、額田部は再三にわたり固辞したという。
しかし群臣らの上奏が数度に及んでついに皇位につき推古天皇となった。
わが国初めての女帝の誕生である。
先例を重視する日本にあって女帝の誕生は極めて異例のことだ。
多分私見だが聖徳太子の強力な後押しもあったのだろう。
推古天皇は明日香豊浦に宮をもうけ、甥の厩戸皇子を皇太子(この頃までは「皇太子」は制度として確立したものではなく、通常「大兄」という普通名詞として語られていたに過ぎなかった。
)にたて摂政(摂政の初例であるが、後の摂政と異なり聖徳太子(厩戸皇子)の場合は天皇に代わり政治を行うのではなく、天皇の政治を輔弼する意味をもった。
)に任じた。
推古天皇は聖徳太子の協力を得て、594年に「三宝興隆の詔」を発布し、603年「冠位十二階※」を定め、604年「憲法十七条※」を制定した。
※印はいずれも聖徳太子によるものだが、とくに「冠位十二階の制」は従来の姓(カバネ)制度を根本から変えるもので画期的なものとして評価が高い。
ただ本格的な官僚制度・機構は大化の改新まで待たねばならない。
一方外交に目を転じると、597年に百済の王子阿佐が来日して貢し、600年には新羅と任那が交戦し推古朝は兵を起こし任那を救援した。
「隋書」によれば600年に倭王の使者が洛陽に赴いたという。
これは「日本書紀」には書いてないが正確なものならば初の遣隋使となる。
602年弟来目皇子を将軍として2万5千の兵を挙げて新羅を討つべく筑紫に発向した。
しかし、来目が陣中にて病没したので太子の異母兄の当麻皇子を将軍にしたが当麻の妻が死んだので結局新羅征討は中止となった。
605年に高句麗の大興王は推古朝が丈六の仏像を作るとの話を聞いて黄金320両を送ってきたという。
推古天皇は75歳で没し、生前に厚葬を嫌っていたので竹田皇子の陵の磯長山田陵に合葬された。
第33代天皇 | |
天皇名 | 推古天皇 |
読み方 | すいこてんのう |
名・諱等 | 豊御食炊屋姫尊 |
読み方 | とよみけかしきやひめのみこと |
時代区分 | 古代 |
天皇在位 | 592年から628年 |
生年 | 554 |
没年 | 628 |
父 | 欽明天皇 |
母 | 堅塩媛 |
兄弟 | 敏達(異母兄弟)用明、崇峻(異母兄弟) |
配偶者 | 敏達天皇 |
皇子女 | 竹田皇子・尾張皇子 |
即位宮 | 豊浦宮 |
天皇陵 | 磯長山田陵 |
所在地 | 大阪府南河内郡太子町大字山田 |
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