高倉天皇とは? わかりやすく解説

たかくら‐てんのう〔‐テンワウ〕【高倉天皇】

読み方:たかくらてんのう

[1161〜1181]第80代の天皇在位1168〜1180。後白河天皇の第7皇子。名は憲仁(のりひと)。後白河法皇院政下に即位し平清盛の娘徳子建礼門院)を皇后としたが、法皇清盛不和憂えて安徳天皇譲位


高倉天皇



高倉天皇 後清閑寺陵
(たかくらてんのう のちのせいかんじのみささぎ)

御陵写真 陵印
代   数 :第80
天 皇 名 :高倉天皇
たかくらてんのう
御   父 後白河天皇
御   母 尊称皇太后滋子
御 陵 名 :後清閑寺陵
(のちのせいかんじみささぎ
陵   形 :方丘
所 在 地 京都府京都市東山区清閑寺歌ノ中山
交通機関等 京阪バス清閑寺山ノ内町下車  北へ0.2km
陵印保管場所 月輪陵墓監区事務所

高倉天皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/19 20:43 UTC 版)

高倉天皇(たかくらてんのう、1161年9月23日応保元年9月3日〉- 1181年1月30日治承5年1月14日〉)は、第80代天皇(在位: 1168年4月9日仁安3年2月19日〉- 1180年3月18日治承4年2月21日〉)。憲仁(のりひと)。


注釈

  1. ^ これに対して、母・建春門院が崩御した直後のことで、高倉天皇の同母弟が生まれる可能性が無くなったのを受けて治天の君である後白河院が皇位継承の安定化のために図ったもので、譲位させる意図はなかったとする説もある。これは高倉天皇に安徳天皇ら皇子が次々に誕生すると異母弟たちの出家が行われていることや後に平家一門が安徳天皇を連れて西国に落ち延びた際も後白河院が高倉天皇の血筋以外への皇位継承を否認しているからも証明できるとしている。ただし、この説においても当時16歳であった高倉天皇や平家一門がこの判断をどう受け取るかは別問題であるとしている[2]
  2. ^ 高倉天皇も父である後白河院を警戒して母・建春門院から継承した所領を自己のものとし、崩御の際には中宮であった徳子に継承させようとしている[3]

出典

  1. ^ 海野泰男『今鏡全釈』上巻、P367-368.
  2. ^ 松薗斉『王朝時代の実像15 中世の王家と宮家』(臨川書店、2023年) ISBN 978-4-653-04715-5 P28-30.
  3. ^ 佐伯智広 2015.


「高倉天皇」の続きの解説一覧



高倉天皇と同じ種類の言葉


固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「高倉天皇」の関連用語

高倉天皇のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



高倉天皇のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
歴史浪漫歴史浪漫
Copyright(C)2024.1.1 ~@Hinet Suzuki Minoru  All Rights Reserved Since-1998.11.21
宮内庁宮内庁
Copyright © 2024 Imperial Household Agency. All rights reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの高倉天皇 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS