探検と郡の設立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/24 14:57 UTC 版)
「ボウイ郡 (テキサス州)」の記事における「探検と郡の設立」の解説
1719年、フランス人探検家ジャン・バティスト・ベナール・ド・ラ・ハルプが軍事基地のル・ポスト・デ・カドダキアスを築いた。この砦は1770年まで継続して利用された。1806年のトマス・フリーマンとピーター・カスティス博士が指揮したレッド川遠征隊は、ボウイ郡となった場所を通過しており、トーマス・ジェファーソン大統領にとって外交と経済で大きな重要性があった。ボウイ郡は1840年に設立され、郡名はアラモの戦いで戦死した伝説のナイフの使い手ジェイムズ・ボウイに因んで名付けられた。当初は現在よりも広かったが、1846年に現在の大きさになった。デカルブの町が暫定的な郡庁所在地になり、1841年にボストンの町が恒久的な郡庁所在地になった。 南北戦争に向かう時代に、ボウイ郡には南部人が多く入植し、綿花畑を作るために奴隷制度を持ち込んだ。1860年までに奴隷は2,651人となり、白人の2,401人を上回った。テキサス州が連邦から脱退するとき、ボウイ郡は住民投票を行い、208票対15票で脱退に賛成した。ボウイ郡が戦場になることは無かったが、レコンストラクション時代は占領された。1860年から1870年の間に人口は減少した。この占領と、新しく法的に平等とされた黒人がカレン・モンゴメリー・ベイカーを育てた敵対的状況になった。 ベイカー(1835年頃-1869年)は、2回寡夫になった意地の悪い酔っ払いであり、20歳になる前に最初の男を殺した。トマス・オアがベイカーの死んだ妻の姉妹と結婚したとき、それでベイカーの結婚する可能性を無くしていたので、ベイカーはオアを吊るそうとした。ボウイ郡と隣のカス郡ではベイカーの行動に関する伝説が豊富であり、クー・クラックス・クランとの繋がりも噂があった。その行為が「サルファー川の沼の狐」と渾名される民話の英雄にも変えた。ベイカーは南軍の2つの部隊で古参兵となり、最初は脱走兵と指定され、2度目は障害者として除隊を認められた。レコンストラクション時代は、当時の多くの者が自分達の生活に北部が潜入してきたと考えたことに対して怒りを向けさせることができた。ベイカーとそのギャング団は黒人労働者問題で悪い側にあると考えた市民に対して、またボウイ郡のウィリアム・G・カークマンと解放奴隷局に対して、さらに占領している北軍兵士に対して、悪意のある暴力行為を行った。カークマンはベイカーを追跡したが成功せず、2回目の試みでベイカーの手下の1人を殺した。アメリカ独立戦争時の「沼の狐」フランシス・マリオンと同様にベイカーは常に捕獲を逃れた。市民の助けを借りることも多かった。カークマンは「見知らぬ人」に殺されたが、ベイカーはそれを自分でやったと豪語していた。1869年12月、トマス・オアと隣人の集団がベイカーを殺した。土地の伝説ではストリキニーネの混じったウィスキーで殺されたということである。 テキサス・パシフィック鉄道が郡内を通って敷設され、テキサカーナと名付けられた新しい町が造られた。 ボウイ郡は他の周辺地区同様世界恐慌の影響を大きく受けた。1942年にテキサス州軍弾薬工場が建設されて、やっと救援の制度ができた。この工場は2009年まで運営されていた。レッド川陸軍補給倉庫が1941年に開設され、現在も使われている。この2つの施設は面積40,000エーカー (160 km2) を占めており、数多い職を提供してきた。
※この「探検と郡の設立」の解説は、「ボウイ郡 (テキサス州)」の解説の一部です。
「探検と郡の設立」を含む「ボウイ郡 (テキサス州)」の記事については、「ボウイ郡 (テキサス州)」の概要を参照ください。
- 探検と郡の設立のページへのリンク