探検とアボリジニへの興味
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「ジョージ・フレッチャー・モー」の記事における「探検とアボリジニへの興味」の解説
モーは、当地のアボリジニに対して友好的な態度を一貫して持っていた。これは当時としては特異な例と言える。先住民族の文化を知れば知るほどモーは興味を持ち、言語や習慣についても学術的な関心を寄せた。1833年5月には犯罪者として指名手配されていたイェーガンと会った際に彼の言い分を聞き、同年中ごろにはパース・ガゼット紙に現地アボリジニの習慣に関する記事を寄稿している。彼は、植民化によって土地を奪われた現地人への補償や、キリスト教化の促進についても熱心に主張した。また、開拓者のひとりロバート・リオン (Robert Lyon) が現地の言葉を学ぼうとした際には資金を援助し、モー自身も一緒に習得に努めた。 1834年から1836年の間、モーは何度も精力的に探検を繰り返した。1834年1月にはスワン川を遡上し、この川がエイボン川と実質的に同じ河川であることを明らかにした。1835年4月にはガルバン川流域で放牧に適した地を発見した。このガルバン川は後に彼の名を取ってモー川 (Moore River) と改名されている。1836年3月にはモー川とエイボン川の流域の北限を探査した。同年10月には、ジョン・セプチマス・ロウ (John Septimus Roe) の隊に加わり、内海を目指した探索を行った。ただし彼らが見つけたのは広がる乾燥地帯だけだった。 モーが家族に宛てた手紙は、1834年に『Extracts from the Letters and Journals of George Fletcher Moore Esq., Now Filling a Judicial Office at the Swan River Settlement』(「スワン川植民地の司法事務官、ジョージ・フレッチャー・モー氏の手紙と報告の抄録」の意)として出版された。これは父ジョセフ・モーが行った事で、出版時に手紙を記した当の本人があずかり知ったか否かはわからない。 1834年7月、裁判所におけるモーの役職はマッキーに引き継がれ、代わりに司法長官に任命された。当初、裁判所を去ることになったモーは裁判官から弁護士に転職せざるを得ないと考え、社会的地位の低下にひどく狼狽した。しかし、新しい役職はモーに植民地の上院議員の席を与え、彼の影響力は増した。モーは知事であるスターリン卿の政策を良しとせず、多く反対の行動をとった。特に1835年3月以降スターリンが提案したアボリジニに対抗する騎馬警察の募兵については、執拗なまでに反対を続けた。 1839年初頭、ジョン・ハット (John Hutt) が行政官に就任すると、彼はモーが関心を寄せていたアボリジニの言語に興味を覚え、赴任してまだ間もない頃から協同してアボリジニ語の辞書製作に乗り出した。1940年8月、辞書は大部分完成した。モーが2年間の長期休暇を取得してロンドンに戻っている間の1842年に、彼らの辞書は『A Descriptive Vocabulary of the Language in Common Use Amongst the Aborigines of Western Australia』(「西オーストラリア州先住民が共通して用いる言語の語彙記述」の意)と題して出版された。
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