探検および開拓の初期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 06:37 UTC 版)
「アメリカ合衆国中西部」の記事における「探検および開拓の初期」の解説
ヨーロッパ人のこの地域の開拓は、17世紀にミシシッピ川流域や五大湖上流域のフランス人の探検によって始まり、毛皮交易の拠点網が作られ、イエズス会の伝道師が派遣された。この地域のフランスの支配は、フレンチ・インディアン戦争が終結した1763年に終わった。イギリス人の開拓者が1750年代からオハイオ地域への進出を始めた。1763年宣言では一時的にアパラチア山脈から西への進出を制限したが、完全に止めることはできなかった。 初期の開拓者はブラドック道路のようなアパラチア山脈を越える経路か、五大湖の水路を通ってこの地域に到着した。オハイオ川の水源で現在のピッツバーグにあるピット砦は、陸路にできた初期の前進基地であった。五大湖の水路を通った中西部への最初の開拓者は、ウィスコンシン州グリーン・ベイ、ミシガン州スーセントマリーおよびデトロイトのような軍隊の基地や交易の拠点を中心に拡がった。陸路を通った初期の移住先は南部オハイオか北部ケンタッキーであり、オハイオ川の両岸であった。初期の有名な開拓者にはダニエル・ブーンやスペンサー・レコードがいる。 アメリカ独立戦争の後、東部の諸州からやってくる開拓者の数が急速に増した。1790年代は独立戦争に従軍した古参兵や開拓者が連邦政府の土地特許に応えて入植してきた。ペンシルベニア州のアルスター=スコッツ系長老派教会員(しばしばバージニア州から入った)、オランダ改革派教徒、クエーカー教徒およびコネチカット州の会衆派教会員がオハイオや中西部に入った初期の開拓者であった。 この地域の肥沃な大地はトウモロコシ、エンバクそして最も重要な小麦など穀物の豊富な収穫を可能にした。初期の時代からこの地域は国の「パン籠」として知られるようになった。
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