探検と地質学調査
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/03 13:53 UTC 版)
「ヘンリー・スクールクラフト」の記事における「探検と地質学調査」の解説
11月18日から1819年2月にかけて、スクールクラフトは仲間のLevi Pettiboneとともに、ミズーリ州ポトシから現在のスプリングフィールドまで探検を行った。彼らはWhite Riverをさらに下りアーカンソーに至り、その地域の地理学、地質学、鉱物学の調査を行った。スクールクラフトは1819年にこの研究をA View of the Lead Mines of Missouri(ミズーリの鉛鉱山の景色)で発表した。この本の中でこの地域の鉛鉱床の可能性を正確に特定し、ミズーリは最終的に1番に鉛を生産する州となった(フランスの入植者はこれ以前の18世紀にセントルイス郊外に鉛鉱山を開発していた)。また、ヨーロッパ系アメリカ人がオザーク高原を探検した最初の記録であるJournal of a Tour into the Interior of Missouri and Arkansawを1821年に出版した。 この探検とその結果出版された著作により、スクールクラフトは陸軍長官ジョン・カルフーンの目に留まり、彼を「勤勉と野心、飽くなき好奇心を持った人物」と称した。カルフーンはミシガン準州知事ルイス・カスにスクールクラフトを推薦し、カスが率いスペリオル湖の原生地域とミシシッピ川以西の土地を探検する探検隊の一員とした。1820年春からスクールクラフトはルイス・カスの探検隊の地質学者として活動した。デトロイトを起点に、ヒューロン湖とスペリオル湖に沿ってミシシッピ川を西へ進み、川を下り現在のアイオワへ行き、ミシガン湖の湖岸を辿りデトロイトに戻ってくるという約2,000マイル (3,200 km)の旅を行った。 この探検はミシシッピ川の水源を確認し、アメリカとブリティッシュ・カナダの間の未確定の境界の問題を解決することを目的としていた。探検隊は上流に進み、今日のミネソタ州にあるアッパーレッドシーダー湖に着いた。水位が低く、それ以上上流へ行くことは不可能であったため、この湖を川の源流とし、カスにちなんで名前を変更した(しかし、スクールクラフトは、水位が高い年の早い時期にはもっと上流までカヌーで行くことができることを地元の人々が探検隊に教えていたことを記している)。スクールクラフトの探検の報告は1821年に出版されたA Narrative Journal of Travels Through the Northwestern Regions...to the Sources of the Mississippi Riverにある。 1821年、イリノイ、インディアナ、オハイオを旅する政府の探検隊の一員となった。1832年、ミシシッピ川の源流の第二次探検隊を率いた。1820年にした探検よりも1か月早く到着し、水位が高いのを利用してイタスカ湖まで行くことができた。
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