採集者から英語学へ
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1886年、東京府下谷区練塀町(現在の千代田区神田練塀町・外神田四丁目・台東区秋葉原に跨る地域)に書家である市河三兼(万庵)の次男として生まれる。5、6歳の頃より家業の書道を学び、また同じく幼年の頃より兄の三陽から漢文の素読を学ぶ。高等小学校1年時からは三陽により英語も学び始める。1897年(明治30年)1月には英語塾の槐陰学館に入り熱心に通ったという。 1898年(明治31年)4月に東京府立尋常中学校(後の東京府立第一中学校)へ入学、在学中の14歳の時、同志の東条操らと図って日本博物学会(後に日本博物学同志会へ改名)を組織し、昆虫と植物の採集に明け暮れ、機関雑誌「博物之友」を刊行した。動物学を原著で読もうと思い立って英語も更に学ぶ様になったという。1903年(明治36年)に東京府立第一中学校を卒業した。第一高等学校第一部(文科)に入学するまでは昆虫学を専攻しようとしていたが、近視のため顕微鏡を使うに堪えまいと思って文科に転向せざるを得なかった。また、この頃は正則英語学校にも通い、斎藤秀三郎から英語を学んだ。市河は「自分は学生時代に斎藤氏の著述は殆ど全部読んだ積りである。」と回想しており、斎藤からは多大な影響を受けたものと思われる。 1905年(明治38年)、一高在学中の19歳の時、アメリカ人標本採集家のマルコム・プレイフェア・アンダーソンらとともに済州島での採集旅行に参加した。7月19日、市河はアンダーソンに電報で長崎県大村湾に呼び出され、アンダーソンやその弟と握手を交わした。済州島での採集(1905年)以前の1年間にアンダーソンは日本国内の採集旅行を実施しており、この時も市河は最初に誘われていたが都合が悪く、代わりに同窓の金井清(後の諏訪市長)と猟師の石黒平次郎が鷲家口などでの採集に同行していた。 1906年(明治39年)に東京帝國大学文科大学言語学科に入学、英語学を専攻する。在学中は外国人教師であるジョン・ローレンス(John Lawrence, 1850-1916)やケーベルから指導を受けた。1909年(明治42年)に著した卒業論文『A Monograph on the Historical Development of the Functions of 'For'(forの歴史的発達)』は学会からも関心が寄せられた。同年に東京帝國大学文科大学を卒業する。卒業に際してローレンスからは優等成績者として市河に対して時計が授与されている。卒業後は大学院へと進んで更なる研究を続けた。
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