採集者から英語学へとは? わかりやすく解説

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採集者から英語学へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 20:07 UTC 版)

市河三喜」の記事における「採集者から英語学へ」の解説

1886年東京府下谷区練塀町現在の千代田区神田練塀町外神田四丁目台東区秋葉原に跨る地域)に書家である市河三兼(庵)の次男として生まれる。5、6歳の頃より家業書道学び、また同じく幼年の頃より兄の三陽から漢文素読を学ぶ。高等小学校1年時からは三陽により英語も学び始める。1897年明治30年1月には英語塾学館入り熱心に通ったという。 1898年明治31年4月東京府尋常中学校(後の東京府立第一中学校)へ入学在学中14歳の時、同志東条操らと図って日本博物学会(後に日本博物学同志会改名)を組織し昆虫植物の採集明け暮れ機関雑誌博物之友」を刊行した動物学原著読もう思い立って英語も更に学ぶ様になったという。1903年明治36年)に東京府立第一中学校卒業した第一高等学校第一部文科)に入学するまでは昆虫学専攻しようとしていたが、近視のため顕微鏡を使うに堪えまいと思って文科転向せざるを得なかった。また、この頃正則英語学校にも通い斎藤秀三郎から英語を学んだ市河は「自分学生時代斎藤氏著述は殆ど全部読んだ積りである。」と回想しており、斎藤からは多大な影響を受けたもの思われる1905年明治38年)、一高在学中19歳の時、アメリカ人標本採集家のマルコム・プレイフェア・アンダーソンとともに済州島での採集旅行参加した7月19日市河アンダーソン電報長崎県大村湾呼び出されアンダーソンやその弟と握手交わした済州島での採集1905年以前1年間アンダーソン日本国内採集旅行実施しており、この時も市河最初に誘われていたが都合悪く代わりに同窓金井清(後の諏訪市長)と猟師石黒平次郎が鷲家口などでの採集同行していた。 1906年明治39年)に東京帝國大学文科大学言語学科に入学英語学専攻する在学中外国人教師であるジョン・ローレンスJohn Lawrence, 1850-1916)やケーベルから指導受けた1909年明治42年)に著した卒業論文『A Monograph on the Historical Development of the Functions of 'For'(forの歴史的発達)』は学会からも関心寄せられた。同年東京帝國大学文科大学卒業する卒業に際してローレンスからは優等成績者として市河に対して時計授与されている。卒業後は大学院へと進んで更なる研究続けた

※この「採集者から英語学へ」の解説は、「市河三喜」の解説の一部です。
「採集者から英語学へ」を含む「市河三喜」の記事については、「市河三喜」の概要を参照ください。

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