振天府とは? わかりやすく解説

振天府

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/27 04:23 UTC 版)

御府」の記事における「振天府」の解説

1896年明治29年)、日清戦争終わった後、明治天皇発案により、忠勇な日本陸海将士勲功保存するため、開戦後奉献され戦利品をおさめ、戦死勇士肖像をあつめ、その姓名留め陳列し、これを振天府と命名した中央に、東西82尺(約31m)、南北20余尺(約7.6m)の本館置かれ、その西に廊を隔ててわずか2間余の御休所置かれた。本館正面楣上には、小松宮彰仁親王天皇の命により書いた府の題額がかかげられた。本館内南側には海軍戦利品を、北側には陸軍戦利品それぞれ戦闘順番によって陳列した御休所の床には、広島大本営の図が掛けられ時計花瓶は、広島大本営滞在中、天皇玉座側近くに置かれた物であった中でもその花瓶は、一名「四兵の御花生」(しへいのおはないけと言い歩兵騎兵砲兵工兵4つ兵科象徴する武器一片ずつを組み合わせて構成した物で、天皇が自ら考案し従軍将士労苦日夕あわれんだ記念の品であった。 なお、御休所の北に、参考室があり、ここに有栖川宮熾仁親王北白川宮能久親王以下、陣没陸海両軍将校写真をかかげ、室内3段には戦病死将卒1万626人の姓名を録した十数巻の巻物安置されていた。 また、別に鹵獲(ろかく、戦利品)の大砲おさめた砲舎があり、庭上には清国兵が威海衛海軍公署にたてた帆檣敵艦定遠号の水雷防御網、金州永安門門扉等が配置されていた。府の設計意匠はもちろん、凡百の列品の陳列にいたるまで、ことごとく天皇の案に出て将士写真額面にはさむまでてづからおこなった伝えられる。 他にも、有光亭(ゆうこうてい)という、日清戦争威海衛戦の鹵獲をもって構築され建造物が振天府参考室の西にあったあずまや造り極めて雅な建築で、その清国兵が港口に沈置した防材用い周壁は敵の砲台にあった砲門上の石額で築かれ、楣上にかかげられた額は有栖川宮威仁親王天皇の命により揮毫したもので、背面文事秘書官股野琢による撰有光の亭記がしたためられていた。

※この「振天府」の解説は、「御府」の解説の一部です。
「振天府」を含む「御府」の記事については、「御府」の概要を参照ください。

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