抱え投げ (相撲)
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抱え投げ(かかえなげ)は、相撲の決まり手の一つ。大相撲においてかつてマスコミにより報道及び記録されていた。日本相撲協会制定の公式の決まり手には含まれていない。別表記抱投(かかえなげ)。
概要
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後ろから相手を抱いて投げる技とされる[要出典]。
1939年一月場所三日目、羽黒山(後の第36代横綱)は背を向けた龍王山(最高位東前頭2枚目)を両手でまわしを引き抱え持ち上げ、土俵から持ち出そうとしたが龍王山が両足をばたつかせ持ち出すのが困難と感じたのか二三歩下がって捻り捨てて左肩から落として勝利。決り手をどうするか困ったラジオ実況はしばし放送中止の形を取り、NHKの山本照アナウンサーから相談された相撲評論家の彦山光三は至急のいくつもの書物の調査の結果、「抱投」とともに抱きまわし(だきまわし)を提案した。しかし、ラジオ実況は抱き投げ(だきなげ)と放送した[1][2]。抱き投げは書籍『日本相撲史』(大日本相撲協会)によると日記『権記』や説話集『古今著聞集』には吊し上げまたは抱上げて投げる技と記載してあるようだと述べている[3]。
公式決まり手制定以前では、以下の取組が「抱え投げ」もしくは「抱き投げ」として記録されている。
講道館機関誌『柔道』1948年5月号で、玉嶺生は、柔道の後腰は相撲では奇手「抱き投」と呼ばれている、と述べている[4]。
脚注
- ^ 栗島狭衣(栗島山之助)『相撲百話』朝日新聞社、日本、1940年1月25日、89頁 。
- ^ 彦山光三(著)、日本大相撲協会(編)「名を附け難い極技」『相撲』第4巻第3号、日本大相撲協会、1939年3月、77-78頁。
- ^ 酒井忠正『日本相撲史(神代から江戸時代)』 上巻、大日本相撲協会、1956年、48頁 。
- ^ 玉嶺生「柔道五教の技と角力四十八手」『柔道』第19巻第5号、講道館、1948年4月、22-23、国立国会図書館書誌ID:000000010910-d6073178。
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