打者としての台頭
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1915年から1917年にかけてルースが投手以外で起用されたのは、たったの44試合であった。1917年のシーズン終了後、チームメイトであったハリー・フーパーは、「ルースは野手として毎日試合に出場した方が価値は上がる」との提言をしている。 ルースが外野を守る回数が増え、登板する機会が減っていったのは1918年からである。かつてのチームメートであるトリス・スピーカーは、「投手でありながら登板のない日に野手として試合に出るのは馬鹿げたことだ」と話し、この転向がルースの選手生命を縮めるかもしれないと見ていたが、ルース自身は打撃の方に関心が移っていき、本格的に野手に転向することになる。この年、ルースは打率.300に11本塁打という記録を、レギュラー野手としては圧倒的に少ない317打数で達成している。 1919年には、130試合に出場するも、わずか17試合しか登板しなかった。同年に放った29本塁打は当時のMLB記録である。当時、ホームランはシーズンで二桁打てば相当なスラッガーであり、最初期の「飛球をワンバウンドで取ってもアウト」というルールの影響から、本塁打自体の評価も低かった。そのため、ルースの29という本数は当時としては驚異的であり、本数を重ねるうちに過去のMLBの本塁打数記録が調べ直され、それまでの最多本塁打記録が1884年のネッド・ウィリアムソン(英語版)の27本(ライトが約60mなど本拠地が異常に狭かった球場での記録)に修正されるなど、文字通り歴史を塗り替える画期的な出来事であった。ルースの登場により、飛ばないボールのデッドボール時代が終わり、本塁打が量産されるライブボール時代が始まった。 ルースの猛打の噂は瞬く間に広がって、プレイを一目見たさに大観衆が詰めかけた。第一次世界大戦終戦による解放感、さらには未曾有の好景気から、大衆は華やかで、派手で、爽快なパフォーマンスを求めており、ルースの特大ホームランはその望みにぴったりだった。ルースの名声が高まるとともに、その胴回りも広がっていき、オリオールズ時代のチームメイトは、ルースの胃袋の大きさに驚いたという。1919年には、ルースの肉体は1916年当時の背の高いアスリートらしい姿から、丸々と太った体型へと変化していた。こうした酒樽のような上半身に対し、筋肉質の下半身はおかしなほど細く見えたが、シーズン二桁盗塁を5回記録するなど、走者としても野手としても問題はなかった。ルースのライバルといえる大打者のタイ・カッブも、後年にルースを「太っている割には走るのが速かった」と述べている。 また、タイ・カッブは、もしルースが最初から野手として起用されていたらもっと本塁打数は伸びていたのではないか、という意見に対し、「ルースは投手だったからあの大振りが許されたんだ。もし野手だったらもっと粘ったり、当てにいく打ち方が求められただろう。大振りして無様な三振をしようものなら、それも奴は若造だったから、大目玉を食らっていただろうよ。だけど奴は投手だったから誰も気にしなかった。だから奴は自分なりの打ち方をいろいろと試すことができて、打者に転向した頃には、確固たるものに仕上がっていたんだよ」と分析している。
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