戦争回避条件のすり合わせ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/14 23:14 UTC 版)
「功山寺挙兵」の記事における「戦争回避条件のすり合わせ」の解説
11月18日、征長軍総督徳川慶勝は三家老の首実検を行った。征長側は総督名代の成瀬正肥、江戸幕閣稲葉正邦、大目付の永井尚志、軍目付の戸川安愛。長州側は吉川経幹、志道安房が出席した。参謀の辻将曹と西郷は次室に控えていた。『征長出陣記』ではこの時、永井は戦争回避の条件として、藩主父子を面縛(後ろ手で罪人として引き渡す)、萩・山口城の明け渡しなどを吉川に通知した。吉川は、自身が岩国領主であることを強調し、それらの条件を決める権限はないと断った上で、それらの条件が萩にもたらされれば、防長士民は一致して徹底抗戦するだろうが、今すぐに応える必要があるかと問うた。永井は、条件は決定事項ではなく、今すぐ応える必要はないと言って吉川を下がらせた。その後永井は西郷に、吉川の回答を告げ意見を求めた。西郷は、面縛・開城を戦争回避の条件とすれば交渉は不可能であり武力で征討する必要があるが、長州を武力で征討するには半年か一年の年月が必要となると答えた。さらに西郷は、世の中が動揺している時期でもあり、戦争が長引けば動員した諸侯から異論が出る事は避けられず、そうなれば幕府の威光に陰りが出ると言い、戦争回避の条件を緩和するよう具申した。西郷の助言は大げさではなく、まさにこの時、天狗党の乱が京都に近付いており、徳川慶喜自らが兵を率いて迎撃に向かう事態に陥っていた。西郷は後の戊辰戦争時も、西徳川宗家の降伏条件として慶喜の引き渡しを求めた際、山岡鉄舟が引き渡しを拒否すると、この時と同様に敵君主の虜囚を降伏条件から撤回している。 実はこれ以前にも征長軍と吉川の間で内々に応答があり、戦争回避の条件として山口城破却、謝罪文の提出、藩主父子と五卿の広島出頭を打診していた。吉川は山口城破却と謝罪文の提出については了承したが、藩主父子の出頭は断固拒否し、五卿の引渡しについても長州藩の顔を立てる形にするよう、交渉の窓口となった福岡藩士と西郷隆盛へ懇願していた。総督府と吉川の条件すり合わせの会議の途中、山口の五卿が何者かと一緒に長府に向かったとの情報がもたらされた。広島に居た吉川と総督府は状況把握できず、五卿を連れ去ったのは長州藩士ではなく脱藩浪士であると推定した。 対処に困る征長軍に対し、福岡藩士喜多岡勇平らは、福岡藩士が脱藩浪士を説得し、五卿を九州の五藩で預かる案を提示した。攘夷志士の多い福岡藩士らは、激化する攘夷派脱藩浪士の説得に自信があった。吉川も、五卿の引き渡しが征長軍ではなく、勤王色の強い九州諸藩へお移り戴くという形であれば長州の面目も立つとして同意した。西郷も薩摩藩を代表して喜多岡の案を推し、尾張藩家老成瀬らも賛成し、最終的に征長軍に帯同した幕閣も了承したため長州の戦争回避の為の三条件が確定した。 同日、征長軍は幕府・朝廷へ詳報と開戦時期延期を伝えた。
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