応用考古学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/04 14:44 UTC 版)
ティワナクと現在の村とのつながりは、遺跡の観光事業だけではない。忘れてならないのが、スカ・コリュの復元実験と、その応用である。応用への試みは、ほとんどが失敗に終わったものの細々と続けられている。現代では失われてしまった古代の技術のうち、現代の開発問題へ応用できるものは積極的に応用してゆこうという方向性は、認めるものがある。専門的にはこれを応用考古学という。 1980年代後半、ティワナク時代の生業技術の中心として有望視されていた農耕技術の復元実験がボリビアで行われた。これに先立ち、ペルー領のチチカカ湖北部沿岸などで同様の実験が行われ、一定の成果を挙げていた。これらチチカカ湖の南北沿岸で行われた復元実験から、スカ・コリュは、一般の天水農耕よりも生産性が高いことが示唆された。 この実験で復元された畑は、畑を水路用の堀でかこみ、畝の部分を盛り上げたもので、アイマラ語でスカ・コリュ、ケチュア語でwaru waru(ワル・ワル)、スペイン語でcamellones(カメリョーネス)、英語でraised field(レイズド・フィールド)と呼ばれる。1970年代から80年代まで続く先住民文化称揚運動とあいまって、復元実験はティワナク周辺地域からコパカバーナ、ビアチャといった広範囲で行われた。そして、復元実験で得た高い生産性が着目され、この技術を現代へも応用することで、貧しい村々の農業生産を高めようとするプロジェクトが始まった。 短期的な視点に立てば、これらの実験はほぼ成功に終わった。つまり、一般に現地で行われている天水農耕に比べ、単位面積あたりの生産性がはるかに高かった。天水農耕に比べおよそ3倍以上、生産性が高い地域もあった。さらに、冷害に非常に強いことも確認されている。この結果をもとに、スカ・コリュの開発問題への応用が始まった。その後、外国のNGOなどの援助のもと、広範囲にわたって応用が行われていった。 しかし、長期的視点に立てばこの実験は失敗に終わってしまう。1996年までにペルー領の実験もふくめて全て放棄され、現在では、遺跡の周囲に実験の跡が残っているのみで、ティワナク村では利用されていない。原因は、年々生産性が減少したため農民たちの関心が薄れていったこと、労働力が思ったよりも必要になり、かつ協同労働でなければスカ・コリュの運営ができないこと、いくつかの地域では水が圧倒的に足りないこと、そして発展途上国の多くの地域で見られる労働力の過少利用つまり過少生産性の問題などがあげられる。 もともとラ・パスに2、3時間で行ける範囲(例えばビアチャ近郊の共同体)では、男たちは都市部での賃金労働に従事することが多く、農村には女子供が残って農作業を行うことが多い。しかし初期の実験では、女子供に対して、力作業である伝統的な踏み鋤による耕作を導入したためうまくいかなかったという例もある。また、一番大きな原因は、スカ・コリュに必要な労働投下量である。一般的な天水農耕に比べはるかに高く、地域全体による協同労働のもとで行う必要があった。しかし、現代の小規模家族経営に近い農民たちにとっては、これが負担になり、結果として維持が困難になっていった。 いったん放棄された応用実験も、小規模になったものの2000年ころから復活する。現在までのところ、Programa de SukaKollu(PROSUKO)という団体によって、2008年までの応用実験が行われている。特に、農民たちによる自立的経営、および生産物の市場経済への組み込みを主な目的として行われている。そのため、PROSUKOは、スカ・コリュ自体の運営へはほとんど関与せず、農民たちの自立的組織 Unión de Asociaciones Productivas del Altiplano(UNAPA)によって管理するように仕向けられている。現在、復元実験はティワナクの隣のアチュタ・グランデ共同体や隣のカタリ盆地にあるワクリャニ共同体、プエルト・ペレス、バタリャス地域の周辺共同体などで見ることができる。アチュタ・グランデやワクリャニ共同体は、地下水位が高く河川沿いあるいは湿地帯のため、水の潤沢な供給が可能でティワナク期にもスカ・コリュが利用されていた。このほかの地域も比較的、水の供給が可能な地域であったため、復元実験に選定された。このほか、アチャカチの河川沿いの軍事施設でも軍事教育の一環として行われている。
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