復活の平幕優勝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 16:38 UTC 版)
1990年(平成2年)3月場所では横綱、大関陣に全く歯が立たず、4勝11敗と振るわなかったが、同年5月場所には横綱・北勝海を破って初金星を挙げるなど9勝6敗と勝ち越し、初の三賞となる敢闘賞を受賞、7月場所では横綱・千代の富士、大関・北天佑を破るなどの活躍が評価され、殊勲賞を受賞した。9月場所で小結に昇進すると、初日にいきなり北勝海を破るなど9勝を挙げ、2場所連続の殊勲賞を受賞した。 1990年(平成2年)11月場所で新関脇に昇進すると、霧島・小錦の両大関、横綱・旭富士を破るなど初日からの6連勝を含む10勝5敗と活躍し、3場所連続の殊勲賞および技能賞を受賞した。さらに1991年(平成3年)1月場所では初日からの8連勝を含む11勝4敗の好成績を残し、2場所連続の技能賞を受賞、勝ち星自体も2場所連続で二桁を記録し、いよいよ大関の声がかかるようになった。しかし佐渡ヶ嶽は、琴ヶ梅に代わる大関候補の誕生に期待をかけながらも琴錦の素行面を不安視しており、同年3月場所の直前に琴錦の女性問題が発覚したことでその不安は的中してしまった。琴錦は当時行きつけの喫茶店でアルバイトをしていた女性と入籍済みで、しかもその女性が身重であったにも関わらず「(別の)女子大生と結婚する」と言い出し、挙句の果てに「どっちも好きだし…」と発言するなど人間性を疑われるような言動に終始したことで「重婚するつもりか」と周囲からバッシングを受けた。当初は報道を否定していたが、結局双方に弁護士が入った結果、婚約者の元に戻った。 事態を重く見た日本相撲協会から琴錦、佐渡ヶ嶽に対して謹慎処分を発表し、「相当の好成績を上げない限り、大関昇進は有り得ない」と厳しい対応を決めた。この場所では前例の無い辛辣な野次を浴びた影響もあって9勝6敗に終わり、大関昇進の絶好期を逃してしまった。同年5月場所も8勝、7月場所においては場所中に左足首を負傷する不運もあり4勝11敗と大きく負け越し、大関昇進どころか平幕へ陥落という苦しい場所となった。この場所は同部屋の兄弟子、琴富士が平幕優勝を果たした場所だったが、場所後の打ち上げでは歓喜の輪に自ら入ることは無く、部屋の隅で一人寂しく笑顔の兄弟子の姿を眺めるだけだったという 自分の撒いたタネとはいえ、女性問題による謹慎処分と平幕へ陥落、さらには兄弟子の平幕優勝の快挙による歓喜に加わることが出来なかった琴錦の落ち込みは相当なものだった。廃業も考えていた琴錦に対して佐渡ヶ嶽は7月場所終了後、故郷に帰っての休養を命じた。故郷に帰っても周囲から白い目で見られるだけと思っていたが、帰郷すると地元では温かい励ましを受け、怪我の治療をしながらやる気を取り戻していく。番付は前頭5枚目まで落ちたが、部屋に戻ってからは猛稽古に取り組み、9月場所は2日目に若花田、12日目貴花田に敗れたものの、14日目を終えて12勝2敗と優勝争いの先頭をキープ。千秋楽、優勝が懸かる大一番で舞の海を土俵下まで吹っ飛ばし、13勝2敗で幕内最高優勝を果たし、7月場所の琴富士に続いて2場所連続の平幕優勝を佐渡ヶ嶽部屋勢で達成した。
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