征西府と観応の擾乱とは? わかりやすく解説

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征西府と観応の擾乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/08 21:44 UTC 版)

相良定頼」の記事における「征西府と観応の擾乱」の解説

興国4年/康永2年1343年)、少弐頼尚薩摩国上陸した懐良親王北上阻むべく南九州南朝諸将懐柔ようとして多良木経頼にも所領安堵約して、定頼と一時的に和睦させた。興国7年/貞和2年1346年)、親王先導務め中院義定(中院定平)は定頼にも義兵要請したが、定頼はこれを拒否して少弐頼尚従った少弐頼尚南朝呼応した恵良惟澄戦って守山城攻めて、 定頼も出陣し八代城攻め筑後経尚の軍勢合流した結局は両城とも落とせなかったが、翌年、頼尚は定頼に八代郡の7ヵ所の所領恩賞として与えた正平3年/貞和4年1348年)、懐良親王宇土上陸して阿蘇惟時迎えられ無事に御船通過して菊池氏本拠隈府城入ってこれを征西府とした。これにより肥後国形勢南朝側に大きく傾いた。 さらに正平4年/貞和5年1349年)、尊氏追われ長門探題足利直冬側近河尻幸俊の助け肥後入った所謂観応の擾乱であるが、直冬南朝勢と通じつつ、大宰府目指し北上し少弐頼尚連合して一色範氏と争うという、複雑な対立構造となった。同じ頃、球磨郡では、多良木経頼が再び挙兵して久米領主道公も同調し、河尻幸俊を通じて直冬とも組した。定頼はすぐに攻撃したが、またもや鎮定することができなかった。頼み少弐頼尚中立となって助力はしてくれず、一方で一色範氏相良側に恩賞与えて都督していたが、結局は範氏は直冬博多追われた。 足利尊氏九州下向予定していたが、東国での足利直義挙兵により中止援軍のあてを失った一色範氏窮余の策として南朝連合した正平6年/観応2年1351年)、中央政界でも「正平一統」があって、南朝大友氏泰一色方)に直義直冬追討命じた。ところが、直義急死すると、後ろ盾失った直冬南朝降ってこれと連合尊氏も再び北朝擁したため、範氏と南朝連合崩れた大友氏島津氏相良氏連合する一色範氏は、定頼のもとに家臣一色範親球磨派遣して、南肥後鎮定目指した。正平7年/文和元年1352年)に一色範親相良定長と共に葦北湯浦秀基の野角城(のずみじょう)を攻略し正平8年/文和2年1353年)、目田河原合戦でも南朝側に勝利した。同じ頃、日向守畠山直顕直冬方で、大隅真幸院巡って薩摩島津貞久争っていた。一色範氏島津からの援軍要請受けて西方球磨からは相良勢と一色範親を、北から大友氏時一色範光攻めさせ、島津勢と合わせて三方から攻撃した。しかし畠山直顕はこれに屈せず南朝方の多良木経頼や須恵彦三郎と連携密にし、薩摩南朝義兵蜂起させて葦北の内河義真呼応させたので、島津師久逆に碇山城を襲われた。直顕は菊池武光援兵得て結局一色範親らの攻撃撃退した。範親と定頼は再び矛先多良木経頼へ向けるがこれは上手く行かず、直顕は一色勢の苦戦をみて、逆に大隅進出して島津貞久攻撃した他方正平9年/文和3年1354年)、懐良親王菊池武光少弐頼尚直冬方)連合軍率いて豊後国進撃し国府落として大友氏泰・氏時親子降伏させた。翌正平10年/文和4年1355年)、北九州拠点失った一色範氏遂に九州追われ長門敗走した。ただし一色範親依然として球磨にあり、島津相良連合で、畠山直顕戦った。定頼は日向侵攻して、田上城、稲荷城を落とし取り返しにきた畠山勢と交戦した正平13年/延文3年1358年)、幕府一色直氏2代目九州探題として送り込んだが、菊池武光により撃退された。既に直冬勢力全国的に崩壊しており、南朝畠山直顕討ち正平14年/延文4年1359年)には筑後川の戦い少弐頼尚大友氏時倒した。これにより懐良親王菊池武光九州制圧をほぼ完成させた。唯一残った南九州に対して幕府は定頼に日向国北郷家職与え20年上前家臣永留頼常の功に恩賞与えるなどして、北朝側への引き留め工作行った正平15年/延文5年1360年)、幕府斯波氏経4代目九州探題とした。氏経は大友氏頼り島津師久・氏久兄弟多良木経頼を攻めさせたり、定頼に阿蘇氏同盟させたりしたが、結局は長者原合戦大敗して放逐された。南朝圧勝状況で、一色範親立場極めて脆弱になった。しかし日向中心とした狭い範囲限られたものの、幕府唯一の出先機関として彼は一定の権威保持し続け、約十年南九州は他とは異な混沌とした状態が続いた

※この「征西府と観応の擾乱」の解説は、「相良定頼」の解説の一部です。
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