弁護放棄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 08:42 UTC 版)
「熊本饅頭屋夫妻殺人事件」の記事における「弁護放棄」の解説
Mは1958年11月11日に東京で逮捕された。Mが夫婦を殺害して通帳等を奪い遺体を長持ちの中に隠し逃亡していたことが事件の真相であった。Mの裁判は異常に早い速度で進められ、1959年(昭和34年)4月7日に熊本地方裁判所は検察の求刑通り死刑判決を出し、二審の福岡高等裁判所も7月11日に控訴を棄却した。 Mは最高裁判所に上告したが、上告審は下級審で出された判決が憲法や法律または判例に違反していないかを書面審理する役割である。証拠調べをとりおこなうこともなく、被告人本人が出廷することはない。そのため検察と弁護人による口頭弁論は通常は二審の判決を変更する場合しか開かれない。しかし三鷹事件で、東京高等裁判所が被告人側の弁論を聞くことなく書面審理だけで一審の無期懲役判決を破棄し、逆転死刑判決を言い渡したことが、問題視されたため、1955年(昭和30年)ごろから最高裁判所も死刑適用事件については、口頭弁論を開く慣習が定着していた。 もっともMは、事実関係を認めているうえ情状酌量すべき事由もないことから、死刑判決が覆る可能性はほぼなかった。1960年(昭和35年)9月9日に最高裁判所第二小法廷でMの口頭弁論公判が開廷したが、Mの国選弁護人は「Mは事実誤認、量刑不当などを上告理由にしているが、それは控訴審までの段階で主張すべきものであり、上告の理由にはならない」と発言した。この発言は事実上弁護人も上告の必要もなくMは死刑が相当であると主張したものであった。これには裁判官側もMの死刑を求めている検察側も驚くものであった。国選とはいえ弁護人がMの主張を裁判で代弁する契約を反故にし職務放棄をするような発言であった。 そのため、9月9日に護憲弁護団は弁護人のように検事の立場にたつのは弁護士道に反すると日本弁護士連合会に申し入れた。日本国憲法で被告人も裁判で弁護を受ける防御権を保障されているが、これは裁判の手続きを厳格化することで不正な裁判を防止し、冤罪を可能な限りださないようにする趣旨で制定されたものである。また日本国憲法第32条は法律の手続きによらなければ刑罰を下せないとしており、被告の防御権が十分に行使されないという法に反した裁判では死刑判決を下すのもできなかった。 結局、Mの口頭弁論は私選で別の弁護士が担当して11月18日に開廷し、Mの主張を代弁した。最高裁判所は12月16日にMの上告は刑事訴訟法第405条の上告理由に当たらないとして棄却し、Mの死刑が確定した。Mは死刑確定から2年後の1962年(昭和37年)12月21日に福岡拘置所で死刑が執行されたが、同房の囚人に「身体を大事にしてください。生きる努力をしてください、それだけを願っています」という言葉を残していったという。
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