府兵制の特徴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 19:30 UTC 版)
西魏・北周は、孝文帝以来の漢化政策と、これに反対した六鎮の乱後の混乱のなかで成立した鮮卑色濃厚な政権である。孝文帝以降も、北鎮一帯で強固に維持された胡族伝統と、漢人伝統とがどう関わり、または止揚され、新国家なり新社会なりが生み出されたかが、この時代を考察する基本的視座となるが、その最も重要な視座は、北アジアでの鮮卑の活動を長く支えてきた力の根源たる軍事とみてよい。『隋書』巻四二に「武帝嘗て雲陽宮に於いて鮮卑語を作し群臣に謂いて云く…、神武公紇豆陵毅答えて曰く…」とあるように、皇帝と群臣が鮮卑語で語り合い、『隋書』巻三二に「鮮卑号令一巻、周武帝撰」が著録され、西魏・北周軍兵士が、鮮卑語で歌われる「簸邏迴歌」系軍楽を高唱していたらしいことから、西魏・北周軍内部は、公用語は鮮卑語とみられる。「二十四軍」の高級将領は一貫して鮮卑系が占め、漢人人士とは昇進差別があった。「二十四軍」兵士は鮮卑・漢人関係なく郷兵率募形式によって結集されたが、郷兵統率者の多くは「宇文」などの胡姓が賜与され、『周書』巻二・文帝紀下に「魏氏の初め、国三十六、大姓九十九を統ぶ。後に多く絶滅す。是こに至り、諸将の功高き者を以て、三十六国の後と為し、次功の者を九十九姓の後と為す。統ぶる所の軍人も亦、改めて其の姓に従う。」とあるように、配下の軍人も主人の姓に従うべく定められ、軍人改姓措置は、部落族長の姓をその部民も名乗るという鮮卑の習俗を踏襲したものであり、その改姓の対象範囲が広かろうが狭かろうが、いかに形式的であろうとも、軍隊を鮮卑固有の部落組織化するものである。西魏・北周における軍制は、魏晋以来の中国的伝統と、鮮卑の影響との二つの流れで構成される前史と密接不可分の関係にあり、西魏・北周政権の中央軍組織=「二十四軍」は、鮮卑と漢人が協力してつくりあげたという、「胡漢融合」新制度とみなすことはできず、擬制的な部分はあるにせよ、あくまでも鮮卑部落兵制として構想され、宇文泰らによって実体化された制度である。「二十四軍」が漢人的伝統ではなく、鮮卑的伝統に根ざす軍制であるならば、北魏の軍制はもちろん、匈奴の二十四長、モンゴルの千戸制、清の八旗制といった遊牧軍制とこそ比較の俎上に載せられるべき制度であり、左右翼による配置は、「二十四軍」(左右十二軍)から唐代「府兵制」の中央左右諸衛体制まで一貫してみられる遊牧軍制的特徴といえる。 西魏・北周はもとより隋代においても、その軍事機構の求心的運用を可能にした要素に、親信・庫真といった北魏内官の系譜に連なる側近集団の存在がある。これら君主の側近集団の存在もまた、「二十四軍」を遊牧軍制と理解するべき指標である。西魏・北周以来の「二十四軍」は、漢人・非漢人の率募した郷兵集団を一貫して兵力基盤とし、北魏内官に淵源するであろう親信・庫真といった側近集団が軍事機構の要所の統括に任ぜられた点において、鮮卑的伝統を濃厚に受け継いだ擬制的部落兵制である。
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