府兵制の崩壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 19:30 UTC 版)
府兵制は、農耕土着風習の中国人にとってはかなりの重い負担であった。玄宗期には均田制自体が行き詰まり、農民が納税できなくなってきたこと。唐の領土があまりにも大きくなってしまって、土着農民の感覚からいうと、あまりにも遠い辺境に防人として送られるようになってきて、帰れる保障もなくなってきたことなどから逃げだす者も増加し、兵が思うように集まらなくなる。 また、華北地域では秋耕の定着による2年3作方式が確立され、農作業の通年化・集約化及びそれらを基盤とした生産力の増大が進展し、事実上の土地私有化が行われるとともに色役の代銭化が行われる一方で、代替が効かずその期間中の農作業を制約される府兵・防人に対する経済的な負担感が増大していった(一連の農業における変化は租庸調制の崩壊と両税法の導入の一因にもなる)。 更に府兵制では外敵の動きに対して機敏に対処することが難しく、唐政府は常備軍を欲するようになり、府兵に変わって行軍が主に使用されるようになる。辺境でもそれは同じであり、羈縻州に対して都護府が設置され、その下には募兵による行軍がいた。 儀鳳年間(676年 - 678年)に軍制の改革が行われ、軍鎮と呼ばれる組織が辺境防衛に当たることになる。しかしこの軍鎮の統制が難しくなり、各地方で強力に軍鎮を統制する節度使が登場することになる。 そして辺境の兵士たちは府兵制に於ける3年間のような短い期間ではなく、6年あるいはそれ以上の時を辺境で過ごすようになる。更に737年に辺境の軍鎮に半永住する長征健児制が出来る。これらの兵士たちは全て募兵であり、生活を国家からの支給で賄う職業軍人であった。 ここに至り、唐における兵農分離が完成し、府兵制は完全に消滅した。
※この「府兵制の崩壊」の解説は、「府兵制」の解説の一部です。
「府兵制の崩壊」を含む「府兵制」の記事については、「府兵制」の概要を参照ください。
- 府兵制の崩壊のページへのリンク