果てなき権勢の落日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/07 07:20 UTC 版)
李林甫は、節度使の軍功を建てた者が中央で宰相となるものを防ぐために、府兵制の破綻という背景も手伝って、節度使に異民族出身者(蕃将)を抜擢するようにと、「文臣は将となれば臆病で役に立たない。寒門や胡人を用いれば、よいでしょう。胡人は勇敢で戦いに慣れており、寒門のものは孤立して派閥がありません。恩を与えれば、命を捨て朝廷のために働いてくれるでしょう」と奏上した。玄宗は同意し、節度使に安禄山・安思順・哥舒翰・高仙芝ら蕃将を用いた。これがのちの安史の乱の遠因となったと言われる。 天宝八載(749年)、咸寧太守の趙奉璋が李林甫の罪を告発したが、告発が届く前に御史に命じて、趙奉璋を殺させた。また、府兵制の崩壊により、折衝府の軍が形骸化していたため、その魚書を廃止した。折衝府は兵はいない状態となり、官吏だけになった。 天宝九載(750年)、吉温が権勢が強くなっていた楊釗につき、李林甫にとって代わることが画策され始める。腹心の刑部尚書蕭炅・御史大夫宋渾は左遷させられ、李林甫も救うことができなかった。だが、この年は符瑞が続き、朝臣の邸宅を道観にして、玄宗の長寿を祝そうと請い、玄宗に喜ばれている。 天宝十載(751年)、朔方節度使を兼ねる。天宝十一載(752年)、朝廷は貴族や大商人らが江淮地方の悪銭5枚を良銭1枚と替え、長安で使用して民間を困らせているという弊害対策に、国庫から銭を出し悪銭を回収していた。李林甫はこのとき、悪銭使用を禁じようと、1ヶ月間の回収期間を取り、持ってこないものは罰した。しかし、商人たちが反対し、楊国忠(楊釗)に訴えたために取りやめになった。結局、元の状態に戻ってしまったという。 さらに、朔方副節度使に任命した突厥の阿布思が安禄山と反目し、反乱を起こす事件が起きた。また、腹心の王鉷が弟の関係した反乱事件に巻き込まれた。李林甫は王鉷を救おうとしたが、楊国忠・陳希烈の意見が通り、王鉷は死刑を命じられた。この成り行きを恐れた李林甫は、自ら朔方節度使を辞退することになる。 楊国忠は李林甫が王鉷・阿布思の反乱に関わっていたと誣告し、陳希烈・哥舒翰も同様の証言をした。玄宗はこの時から、李林甫を疎んじるようになった。李林甫は、楊国忠の主導した南詔討伐が何度も失敗し、楊国忠が剣南節度使を兼ねていたため、任地に赴かせようとした。玄宗は楊国忠に赴くように促したが、李林甫の病は重くなっており、玄宗を拝することすら出来なくなっていた。楊国忠は途中で呼び返され、李林甫に会った。李林甫は涙を流し、楊国忠に後事を託し、死ぬ。太尉・揚州大都督に追封された。 しかし、天宝十二載(753年)、楊国忠は安禄山・陳希烈とともに「李林甫は阿布思と共謀していた」と誣告した。李林甫の婿の楊斉宣が後難を恐れて証言し、李林甫は官職剥脱のうえ庶民の地位に落とされ、子の李岫をはじめとする子孫は配流され、財産は没収となった。棺桶は庶民のものに代えられ、李林甫の党と見做された者も左遷させられた。 「真綿に針を包むごとし」と人評され、奸臣の代表とされる。
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