府兵制の前身
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 19:30 UTC 版)
北魏分裂後、鮮卑の精鋭は故地に近い東魏の方にどちらかと言えば集まり、西魏には少なかった。 危機感を抱いた西魏の指導者宇文泰が534年の東魏との戦いに敗戦した後、兵力の不足を補うため、各地の名望ある豪族を「郷帥」に任じて、それぞれの地方において「郷兵」を結集したのが起源である。 「郷兵」は、漢人農民が多かったが五胡十六国時代以来、関中に移り住んだ胡族もかなり含まれていた。こうした郷兵部隊が、550年頃までに「二十四軍」に編成され、「開府」と呼ばれる司令官がそれぞれ一軍を統率する形に組織された。二人の「開府」は一人の「大将軍」に率いられ、二人の「大将軍」は、一人の「柱国」によって率いられた。 この府兵軍団を率いるのが全体の統括者で丞相(大冢宰)でもある宇文泰であった。六柱国(宇文泰自身と西魏の宗室を含めて八柱国) - 十二大将軍 - 二十四開府という軍制になり、一つの開府に一軍があり、軍はいくつかの「団」によって構成され、儀同将軍、大都督、帥都督、都督といった指揮官が置かれた。郷兵部隊は、このような軍団組織に組み込まれ「府兵」と呼ばれた。「府兵」は、租庸調と労役を免除され、戦士として必要な馬や食糧は六軒の家が共同で負担した。胡族の人々にとってはかつての誇りをとりもどす方向になり、漢人の郷兵にとっても貴族制下の身分格差からの解放の意味があった。このように、栄誉ある自弁の戦士として自発的に軍に参加するという民衆の意識に支えられて「府兵制」は成立した。また、このことによって軍隊を抱えることによる国家財政の負担も軽減された。 この軍制の将軍である八柱国・十二大将軍は西魏とその後の北周にとっての有力者の家系となり、後の隋の楊氏は大将軍の、唐の李氏は柱国の家系である。
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