府主教となるまでの前半生
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「フィリップ2世 (モスクワ府主教)」の記事における「府主教となるまでの前半生」の解説
フィリップは1507年に貴族の家に俗名フョードルの名で生まれた。教養ある父からは将来政務をとることが出来るように教育が行われ、のちに修道院に入ってそこで永眠するほど信仰熱心な母からは正教の信仰が植えつけられ、聖書を読んで育った。 成長するとヴァシーリー3世により宮廷に召抱えられるが、ほどなくして宮廷での生活に空しさと罪を感じるようになり、さらに聖書を読むことに没頭し、教会にも足繁く通うようになった。1537年6月5日の主日聖体礼儀において、「人は二人の主に事ふる(つかふる)能はず(あたわず)」(マタイによる福音書6章24節)とのイイスス・ハリストスの言葉を強く感じ、修道のためひそかにモスクワを出て北方に赴いた。 ソロヴェツキー修道院において、1年半の見習い期間を経たのち、典院アレクシイのもとでフョードルは修道士となり、フィリップとの修道名を与えられた。 フィリップは修道院で熱心に斎と祈祷にはげみ、奉神礼の時にはいつも誰よりも先に聖堂に来て、誰よりも後に聖堂を出ていた。また、謙遜にパン焼きなどの修道院内の様々な労働に熱心に取り組んだ。 1546年に、ノヴゴロド大主教フェオドシイにより、フィリップはソロヴェツキー修道院の典院に昇叙された。修道院は精神的に再生し発展し、新しい修道規則が受け入れられた。1557年には修道院内に荘厳な生神女就寝聖堂と顕栄聖堂が建てられた。典院となっていたフィリップであったが、顕栄聖堂の建設にあたっては壁を造るのを手伝うなど、単純労働にも引き続いて従事していた。
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