幼少期、1452年から1466年
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「レオナルド・ダ・ヴィンチ」の記事における「幼少期、1452年から1466年」の解説
レオナルドは1452年4月15日(ユリウス暦)の「日没3時間後」に、トスカーナのヴィンチに生まれた。ヴィンチはアルノ川下流に位置する村で、メディチ家が支配するフィレンツェ共和国に属していた。父はフィレンツェの裕福な公証人セル(メッセル)・ピエロ・フルオジーノ・ディ・アントーニオ・ダ・ヴィンチで、母のカテリーナはおそらく農夫の娘とされる。 レオナルドの「姓」であるダ・ヴィンチは、「ヴィンチ(出身)の」を意味する。出生名の「レオナルド・ディ・セル・ピエロ・ダ・ヴィンチ」は、「ヴィンチ(出身)のセル(父親メッセルの略称)の(息子の)レオナルド」という意味となる。セル(メッセル (Messer)) は敬称であり、レオナルドの父親が公証人に就いていたことを示している。 レオナルド自身は長じて後も子供をもうけなかったとみられるが、父親の血筋を引く子孫の調査が1970年代から進められてきた。その結果、22人の異母きょうだいがいたことと、その父親の直径子孫14人がイタリアにいることがレオナルド・ダ・ヴィンチ理想博物館(ヴィンチ村)の研究により判明した。 レオナルドの幼少期についてはほとんど伝わっていない。生まれてから5年をヴィンチの村落で母親とともに暮らし、1457年からは父親、祖父母、叔父フランチェスコと、ヴィンチの都市部で過ごした。レオナルドの父親セル・ピエロは、レオナルドが生まれて間もなくアルビエラという名前の16歳の娘と結婚しており、レオナルドとこの義母の関係は良好だったが、義母は若くして死去してしまっている。レオナルドが16歳のときに、父親が20歳の娘フランチェスカ・ランフレディーニと再婚したが、セル・ピエロに嫡出子が誕生したのは、3回目と4回目の結婚時のことだった。レオナルドは、祖父母からイタリア語の教育を受け、西洋教育史の初等学校(7歳〜15歳)には通えず、正式にではなかったがラテン語学校(7歳〜24歳)に通うヴィンチ村の青年・少年達からラテン語、数学、幾何学、絵画の教育を受けたとされるが見聞きした程度であり、入学もせず、独学であった。根暗に家や寝室に篭るよりも野山や谷川を好み、時には村の馬小屋にて馬の世話やスケッチなどをして幼少期を過ごしたとされる。後にレオナルドは幼少期の記憶として二つの出来事を記している。一つはレオナルド自身が何らかの神秘体験と考えていた記憶で、ハゲワシが空から舞い降り、子供用ベッドで寝ていたレオナルドの口元をその尾で何度も打ち据えたというものである。もう一つの記憶は、山を散策していたレオナルドが洞窟を見つけたときのものである。レオナルドは、洞窟の中に潜んでいるかもしれない化け物に怯えながらも、洞窟の内部はどのようになっているのだろうかという好奇心で一杯になったと記している。 レオナルドの幼少期は様々な推測の的となっている。16世紀の画家で、ルネサンス期の芸術家たちの伝記『画家・彫刻家・建築家列伝』を著したジョルジョ・ヴァザーリは、レオナルドの幼少期について次のように記述している。小作農の家で育ったレオナルドに、あるとき父親セル・ピエロが絵を描いてみるように勧めた。レオナルドが描いたのは口から火を吐く化け物の絵で、気味悪がったセル・ピエロはこの絵をフィレンツェの画商に売り払い、さらに画商からミラノ公の手に渡った。レオナルドの描いた絵で利益を手にしたセル・ピエロは、矢がハートに突き刺さった装飾のある楯飾りを購入し、レオナルドを育てた小作人へ贈った。
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