常識学派の発展と『エディンバラ・レビュー 』
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「スコットランド常識学派」の記事における「常識学派の発展と『エディンバラ・レビュー 』」の解説
プリーストリーへの再反論として、ビーティー、オズワルドの通俗受けした常識哲学から、リード本来の「精神の解剖学」としての「コモン・センス」哲学への回帰の道を示したのが、リードの「正当な後継者」と言われるエディンバラ大学の道徳哲学教授であったデュガルド・ステュアートである。ステュアートはエディンバラ王立協会のリード追悼講演(1802)において、「常識の原理」という言葉がリードの思想を曲解させてきたと指摘し、「常識(コモン・センス)」という語の代わりに「信念の基本法則」という名称を用いることを提案した。彼は「常識」、すなわち「信念の基本法則」を「それがなければこの世の全ての業務がただちに停止することになる、あの人間本性の基本構造」として再定義し、ここから常識哲学は新たな発展を遂げることとなる。 ステュアートは認識論を常識哲学の第一部門として『人間精神哲学の諸要素』(1792)を刊行し、倫理学を第二部門として『人間能動的・道徳的能力の哲学』(1828)を刊行した。残る第三部門(経済学)についての著作は計画されていたものの実現せず、ハミルトンの編集による『講義録』(1855)が残されるのみであった。ステュアートは政治経済学を道徳哲学から切り離し、初めて「新しい学問」として独立した講義を行ったことでも知られている。 エディンバラにおけるステュアートの活動は、多くの弟子を生み出した。また、当時のエディンバラの知的環境の中でも最も注目すべきは、評論誌『エディンバラ・レビュー』(1802-1929)の刊行であった。ステュアートの弟子達の論文がその誌面に載ることも多く、そしてその中でも最も常識学派の流れを継承し、大陸の観念論哲学とも、イングランドの経験論哲学とも異なる「スコットランド常識学派」という流れを受け継いだのはトマス・ブラウンとウィリアム・ハミルトン卿である。 『エディンバラ・レビュー』の初期の論客としてイマヌエル・カントやエラズマス・ダーウィンに対する批判を執筆していたことで知られるトマス・ブラウンは、ステュアートの直接の後任として道徳哲学の教授となった。彼はその著作『人間精神の哲学の講義』(1820)において、ハートリー由来の観念連合心理学をリードの常識哲学に導入し、リードの思想において峻別されていた「感覚」と「知覚」との関係を論じた。ブラウンは若くして亡くなったものの、観念連合心理学の発展に多く貢献したと言われている。 J.S.ミルからの苛烈な批判でも知られるウィリアム・ハミルトン卿は、ステュアートからリードの常識哲学を受け継いだとともに、ブラウンとは逆にカントの批判哲学を積極的に受容するように努めた。ハミルトンは『エディンバラ・レビュー』に掲載されたクーザンの認識論を批判する論文「無制約者の哲学」(1829)において、我々は「制約されたもの」しか認識できないとする相対的認識論を展開した。すなわち、彼によれば「考えることとは条件付けること(To think is to condition)」であり、すべての対象は他との関係を認識することによって知ることが出来る。それ故に、条件づけられない「無限」や「永遠」を認識することは出来ないのである。この論文をきっかけとしてハミルトンはエディンバラ大学に論理学・形而上学の教授としての職を得ることに成功した。ハミルトンは論理学を初めとして多くの業績を残し、彼の著作はスコットランドのみならずイングランド国内でも広く受け入れられ、さらにはフランス・スピリチュアリスムにも広く影響を与えた。ハミルトンはまた、リードの著作やステュアートの遺稿を編纂し、『トマス・リード著作集』全2巻や、『デュガルド・スチュアート全集』全11巻を刊行した。
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