巫娼への零落
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/04 08:23 UTC 版)
神にせせられるパッションが薄くなると同時に、祢津村の辺りに巫女コミュニティを構えることになり、柳田によれば後に「死人の口をきく」口寄せを行う巫女として各地に再びさすらうこととなったという。各地でマンチあるいはマンニチ(万日供養から)、ノノウ、旅女郎(新潟)、飯縄あるいは飯綱(京都府下)、コンガラサマ(舞う様がミズスマシに似るため 岡山県)、をしへ、刀自話(島根県)、なをし(広島県)、トリデ(熊本県)、キツネツケ(佐賀県)、ヤカミシュ(伊豆新島)と呼ばれた彼女たちは、17~8歳から三十代どまりの美女で、関東から近畿にいたる各地に現れ、「巫女の口ききなさらんか」と言って回ったという。外法箱と呼ばれる小さな箱を舟形に縫った紺色の風呂敷で包んで背負い、白い脚胖に下げた下襦袢、尻をからげて白い腰巻をする、という姿で、二三人連れ立って口寄せ、祈祷を行い、春もひさいだので、山梨、和歌山県辺りでは「白湯文字」という。 儀式は、外法箱と呼ばれる箱に枯葉で水をかけ、うつ伏して行った。中の神は確かではないが、堀一郎によれば「五寸ほどのククノチ神(弓を持った案山子)像、捒物のキボコ(男女が合体している木像)、一寸五分の仏と猫頭の干物、白犬の頭蓋骨、雛人形、藁人形」が入っていたという記録がある。 旧暦の正月から四月にかけて、祢津村の旧西町にあるノノウ小路から出発し、各地へ回って仕事をし、遅くとも大晦日までには帰る、というサイクルで活動していた。帰ると寒垢離を行ったらしい。 巫女村各戸の親方である抱主(かかへぬしあるいはぼっぽく)が巡礼の折、各地(関東から紀州にかけて、主に美濃、飛騨から)で8、9歳から15、6歳のきれいな少女を、年を定めるあるいは養女としてスカウトし、信州に連れ帰って先輩のノノウに付け、三年から五年ほど修行して一人前となった。谷川健一によればちょっとしたものを、中山太郎によれば身の回りのものをあらかた持って各地を訪れると、地元民から歓迎され、中山によれば「信濃巫は槍一本(千石取り)程の物持ちで、荷物は専門の者が持ち、各地を手形なしで歩ける」という伝説までついたという。勿論、俗世に浴しているため気前よく「金をばらまく」ことが多かったために他ならないが、旅先での借金は必ず返し、聖職者であるため肉食は禁じられていたらしい。 明治初期辺りまで関西(河内長野市近辺)にやってきていたらしい。
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