巨文島事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 07:12 UTC 版)
詳細は「巨文島事件」を参照 1885年4月、巨文島は海軍本部の命により、イギリス海軍の3隻の軍艦、エイジャックス級装甲艦アガメムノン(英語版) (HMS Agamemnon)、en:Doterel-class sloopペガサス(英語版) (HMS Pegasus)、砲艦ファイアブランド (HMS Firebrand) によって占領された。これはアフガニスタンでのパンジェ紛争(英語版)(Panjdeh Incident) に直面して、ロシアの伸張の機先を制するためのものだった。当時、ロシアは朝鮮半島北東部の永興湾(現在の元山市付近)の軍港としての利用を模索しており、イギリスはこれに対抗する必要があった。イギリスは清国と日本に巨文島の占拠を通告し、住民を動員して兵舎や防御施設を建て、また上海との間に電信線を敷設した。 清国は当初、ロシアへの対抗策として、および朝鮮に対する自国の優先権を国際的に確認するために、イギリスによる巨文島占拠をある程度は認めるつもりだった。イギリスが巨文島を占拠したとき、イギリスは、朝鮮政府ではなく、イギリス駐在清国大使の曽紀沢に通告を行っており、そして曽紀沢は、朝鮮政府に連絡することもなく占領を了承しており、国土の変更ですら清国大使の裁量次第だった。しかし、朝鮮問題に発言力を持つ李鴻章の強い反対により態度を変え、イギリスに退去を求めるとともに、朝鮮政府の支援に転じた。朝鮮政府は現地調査のために、政府有司堂上・厳世永と外務協辦(外交顧問)を務めていたメレンドルフを派遣し、巨文島のイギリス海軍の指揮官や長崎に滞在していたイギリス東洋艦隊司令官と交渉を行ったが、決定的な対応を得ることはできなかった。 このようにイギリスは、巨文島を「第2の香港」とするべく既成事実化を進めたが、各国の反対は強硬だった。ロシア公使ヴェーバーは、ロシアがイギリスに対抗して朝鮮の適当な土地を占領することを公言し、積極的な反対運動を行った。アフガニスタンにおけるロシアの脅威が縮小した後、イギリスと清国の間で交渉が行われ、最終的にイギリス艦隊は巨文島の基地を放棄することを決めた。イギリス人は1887年2月27日に基地を破壊して立ち去ったが、その後も彼らは島を訪問し続けた。若い水兵をそこに埋葬することもあった。島々が日本の統治に入った1910年以後、訪問は頻繁ではなくなった。 島には10人の英国人水兵と海兵が埋葬されている。 1886年3月、銃の暴発事故で死んだアルバトロス号の乗組員、ウィリアム・J・マーレイ一等水兵とチャールズ・デール少年兵。 1903年に死んだアルビオン号の若い水兵、アレックス・ウッド上等兵曹。 他、7名のイギリス人水兵及び海兵。 なお、イギリスが巨文島を占拠したとき、イギリスは、朝鮮政府ではなく、イギリス駐在清国大使の曽紀沢に通告を行っており、そして曽紀沢は、朝鮮政府に連絡することもなく占領を了承しており、国土の変更ですら清国大使の裁量次第であり、李氏朝鮮の外交交渉は、朝鮮政府ではなく清国を通して行われており、朝鮮の国事人事までも、清国政府が決めていた(朝鮮政府がメレンドルフを外務協弁(補佐官)から解任するときは、清国の李鴻章の承認を得て行っており、その後任にアメリカ人のメリル(英語: Henry F. Merrill)を派遣したのも李鴻章である)。
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