尚寧の冊封を巡って
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「琉球の朝貢と冊封の歴史」の記事における「尚寧の冊封を巡って」の解説
琉球国王の冊封を頒封とすべきか、領封とすべきか、明の朝廷内で最も紛糾したのが尚寧の冊封時であった。1589年に王位を継承した尚寧は、1595年に請封を行った。豊臣秀吉による朝鮮出兵への協力強要などで琉球国内は混乱しており、王位継承後しばらくの間の請封は困難であった。尚寧の請封が遅れる中、明の国内では冊封を急いで明の後ろ盾として琉球を盛り立て、日本に対する備えとすべきという意見も出されていた。この請封を受けて福建の責任者は、倭寇の活動が活発であることを理由に、福建で尚寧を琉球国王に封じる詔書を琉球からの使者に手渡す領封か、さもなければこれまで文官を冊封使として派遣していたのを武官の派遣に変えてはどうかとの意見を出す。明の朝廷内で議論がなされ、万暦帝は領封を行うと決定した。 琉球側は万暦帝の領封の決定に納得しなかった。慶長の役のあおりを受けてしばらく尚寧の冊封問題は進展しなかったが、事態が落ち着きを取り戻しつつあった1600年に琉球は使者を送り、これまで通り琉球に冊封使を送って冊封儀式を執り行う、頒封の実現を希望した。ここで万暦帝は1595年の領封決定を覆し、武官を冊封使として派遣する決定を下す。万暦帝の武官派遣決定の意図は、日本側との戦争状態が終結して間もない時点での安全面を考慮したからと考えられる。 しかし琉球側は1601年、改めて使者を送って冊封使として文官の派遣を求めた。琉球としてはこれまで武官が冊封使として来琉した前例は無く、また琉球側としては武官の派遣は希望しておらず、今まで通り文官の派遣を求めた。加えて1600年に派遣した使者は、武官の派遣という回答を琉球に持ち帰ってきたことについて罪に問うことにしたと報告した。琉球側が武官の派遣を忌避したのは、武官派遣は明が琉球国王を罪に問うためであると受け取られることを恐れたからとされている。後述のように尚寧は日本の情勢を明に通報し続けていて、明に対する服従の姿勢は崩さなかった反面、秀吉の強要に屈して要求の半量とはいえ兵糧米を供出していた。いわば日明双方に配慮した外交を余儀なくされていたわけで、琉球国内で国王を罪に問うために明が武官を派遣してきたと受け取られる素地は十分にあった。 万暦帝は琉球側の要請を認めて文官を冊封使として派遣することを決定し、1603年には正式に夏子陽が冊封使に任命された。結局万暦帝の決定は3度変更されたことになる。しかし文官派遣との決定が下り、実際に冊封使が任命された後も意見対立は尾を引き、武官の派遣論、そして領封とすべきとの意見が蒸し返された。さすがに皇帝の命を受けて文官の冊封使が任命された後に変更をすれば、問題がますます大きくなり明の国威に傷がつきかねないとの意見が通り、1606年、冊封使夏子陽が琉球へ向かい、尚寧の冊封儀式を執り行った。王位継承後17年後のことであり、これは王位継承後18年後である1866年に冊封された尚泰に次いで、時間がかかった冊封となった。 この万暦帝の首尾一貫しない対応について、廷臣の中から批判の声が上がった。結局万暦帝は、尚寧以降の琉球国王冊封については、福建で詔書を琉球からの使者に手渡す領封を行うとの判断を示した。つまり万暦帝は4回、判断を変更したことになる。明側としては海難の恐れや倭寇の危険に加え、冊封使の乗船する船の建造等、頒封の負担が大きかったことが領封論の根本にあった。しかしこれまでの頒封からの変更は伝統に反するとの意見も強く、緊張状態が続いていた対日関係を考えると、頒封を強く望む琉球側の要望に応えることによって琉球国内の動揺を抑える必要性は高かった。また冊封に伴い琉球に派遣される使節団の貿易活動による利潤も無視できなかった。 一方、琉球側は尚元の冊封時の1560年には領封を求めたのにも関わらず、約40年後の尚寧の冊封時は執拗に頒封を要請した。琉球側の頒封へのこだわりは、明側と同じく伝統に従うべきであるとの考え方が強かったこと、琉球国王の権威を高めるために、冊封使による冊封儀式に大きな意味があると判断していたことが挙げられる。また尚寧の冊封時にはこれまで以上に明からの冊封使を迎える必要性が高かったとの指摘もある。尚寧の治世、日本、中でも島津氏の脅威が増大しており、琉球王府にとって中国との関係性の象徴である冊封の重要性が増していたのである。14世紀以降、琉球にとっては貿易面を中心に朝貢によるメリットの享受が冊封を受ける最も大きな意味であったものが、琉球王国の体制が危機を迎え、国内が動揺するようになる16世紀後半以降、自らの体制保障として冊封されることを重要視するようになっていく。この冊封を琉球王国の体制保障と結びつける考え方は、17世紀初頭の薩摩藩による琉球侵攻後、ますますはっきりとしていく。
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