小楼の逸話 ─俊斎の伝える処─
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/06 14:29 UTC 版)
「戸田忠太夫」の記事における「小楼の逸話 ─俊斎の伝える処─」の解説
明治維新後に子爵となる幕末の薩摩藩士・海江田信義が、俊斎(有村俊斎)と名乗っていた頃(海江田家に養子入りして改名する以前、茶人として実家・有村家の者としてそのように号し呼ばれていた頃)、尊王思想を通じて知己となった藤田東湖の紹介で、水戸藩江戸屋敷(水戸藩の江戸藩邸)にいた戸田忠太夫を紹介され、以来、俊斎こと信義はしばしば忠太夫を訪ねていた。信義の遺した口述を西河稱(西河称)が編述して1891年(明治24年)9月14日に刊行した『維新前後 実歴史伝』には、忠太夫の小楼に招かれた時のこととして俊斎の語った次のような話が記載されている。 《原文》(…略…).mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}翁(おきな)一日(いちにち)俊齋(しゆんさい)を小樓(せうろう)に延けり。僅(わづか)に一室(いつしつ)六疊(ろくでふ)にすぎず。翁曰(いは)く、是(この)樓(ろう)頃日(けいじつ)落成(らくせい)せり、而(しか)して前面に鬱蒼(うつさう)たる者は後樂園(こうらくえん)の松林(まつばやし)にして、一(ひと)たび此(この)樓に登れば恰(あたか)も山中(さんちゆう)に在(あ)るの趣(おもむき)ありて、塵機自(みず)から息(やす)むを覺(おぼ)ふ。而して余(よ)が性(しやう)少壯(せうさう)より笙(しやう)を好む。然(しか)るに曩(さき)に藤田と共に禁錮(きんこ)九年(くねん)に及びしを以(もつ)て復(また)笙を吹かさること久(ひさ)し。茲(ここ)に此(この)樓を經營(けいえい)するに方(あた)りて幽情(いうじやう)轉.mw-parser-output .jis2004font{font-family:"源ノ角ゴシック JP Normal","源ノ角ゴシック JP","Source Han Sans Normal","Source Han Sans","NotoSansJP-DemiLight","Noto Sans CJK JP DemiLight","ヒラギノ角ゴ ProN W3","ヒラギノ角ゴ ProN","Hiragino Kaku Gothic ProN","メイリオ",Meiryo,"新ゴ Pr6N R","A-OTF 新ゴ Pr6N R","小塚ゴシック Pr6N M","IPAexゴシック","Takaoゴシック","XANO明朝U32","XANO明朝","和田研中丸ゴシック2004絵文字","和田研中丸ゴシック2004ARIB","和田研中丸ゴシック2004P4","和田研細丸ゴシック2004絵文字","和田研細丸ゴシック2004ARIB","和田研細丸ゴシック2004P4","和田研細丸ゴシックProN",YOzFont04,"IPA Pゴシック","Yu Gothic UI","Meiryo UI","MS Pゴシック";font-feature-settings:"jp04"1}〻(てんてん)動き敢(あへ)て一吹(いつすい)を試みんことを思ひ、之(これ)を藤田に告ぐ。藤田曰く、笙は雅樂(ががく)にして鄭衛(ていゑい)の音(こゑ)に非(あら)ず、之(これ)を弄(ろう)する固(もと)より好(よ)し、然(しか)れども、必竟(ひつきやう)玩弄(ぐわんろう)の器(き)、遊戯(いうぎ)の具(ぐ)たるを免(まぬ)かれず、今やペルリ來航(らいかう)の後、天下(てんか)紛擾(ふんぜう)の際(きわ)、世人(せじん)或(あるい)は吾人(ごじん)を以(もつ)て逸樂(いつらく)に耽(ふけ)ると評するなきやと恐(おそ)る、時機尚(な)ほ早し、請(こ)ふ、少(すこ)しく猶豫(いうよ)して可なりと。噫(ああ)、藤田の謂(い)ふ所(ところ)實(じつ)に理(り)あり、甚(はなは)だ慚愧(ざんき)に堪(た)へざりし、盖(けだ)し藤田の言(げん)に依(よ)り、復(また)笙を執(と)らずと雖(いへど)も、心中(しんちゆう)忽然(こつぜん)として此(この)一念を發(はつ)せしもの、是(こ)れ余が德義の未(いま)だ藤田に及ばざる所以(ゆゑん)なりと。─── 原文は、海江田信義『維新前後 実歴史伝』巻之一に記載された一話「戸田翁一日俊齋を小樓に延す」および、続く一話「戸田翁笙を吹かんと思ひ藤田の忠告に依て之を止む」(46~47面目)。全ての振り仮名はウィキペディア編者による補足。一部の濁点(例:「一たひ」→「一たび」、「未た」→「未だ」)と、全ての句読点の位置は、ウィキペディア編者による改変がある。 《解釈例》 戸田翁(戸田忠太夫)が、自ら営むわずか1室6畳の小楼(小さな楼閣)に藤田翁(藤田東湖)と私・俊斎(信義)を招いてくれ、一昼夜を談義して過ごした。戸田翁は、私達のいる楼は近日に落成したばかりなのだと紹介し、前面に見える鬱蒼とした木々は後楽園(小石川後楽園)の松林で、ひとたびこの楼に登ればあたかも山中にいるかのような趣きがあって気分がよくなると言った。戸田翁は続けて言った。私は若い頃から笙を吹くのが好きだが、以前、藤田ともども9年も禁錮を受けていたが故に笙どころではなく、久しく吹いていないと。そうして、楼を設けて営むにあたって深淵なる想いを旨に一吹きしてみようと思うと言って藤田翁に告げる戸田翁だったが、藤田翁はこれを諭して言った。笙は世を乱す鄙(いや)しい音楽ではなく雅楽のものだから、元来、吹くのは好ましい、とは言え、結局のところ遊びは遊び、黒船来航以来天下紛擾する今節に笙を吹いているのでは、世間の人々やあるいは近しい人の中にも、逸楽(快楽をむさぼり、気ままに遊び暮らすこと)に耽っているものと悪く捉える人のあるやもしれず、心配でならない、時機がまだ早いだろう、もう少し待ってはどうか、是非ともそうしてもらいたい。これを聞いた戸田翁は、藤田翁に全き理のあるを認めて助言を受け入れつつ、甚だ慙愧に絶えない様子で溜め息を漏らし、心中そのような気を動かしてしまうことが私の徳義の未だ藤田に及ばない所以だと言った。 ─── 原文に基づき、文意を捉えたうえで百科事典に適した形への大幅な改変を行った。
※この「小楼の逸話 ─俊斎の伝える処─」の解説は、「戸田忠太夫」の解説の一部です。
「小楼の逸話 ─俊斎の伝える処─」を含む「戸田忠太夫」の記事については、「戸田忠太夫」の概要を参照ください。
- 小楼の逸話 ─俊斎の伝える処─のページへのリンク