小樽での女子教育
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当時の北海道では、小樽でジョージ・ペック・ピアソンが伝道しており、ロースはピアソンの勧めで、スミス女学校の姉妹校として、小樽の女学校設立に動き出した。小樽は国際貿易港に指定されて繁栄しており、キリスト教主義学校の設立にふさわしい地と考えられたことや、繁栄の一方で未就学女子が多く、文化面や教養面が貧困で、道徳的に頽廃していると考えられたためである。 1895年(明治28年)に、スミス女学校の卒業生である女子教育者の河井道らの協力のもと、小樽初の女学校である静修女学校が開校された。小樽教会の牧師や各界の人士たちからも支援が得られた。ロースは1896年(明治29年)12月までは、この女学校のみならず、スミス女学校の教員もまだ兼任していたため、小樽に借りた家に住み、平日は札幌におり、金曜に小樽に帰って英語を教え、夜は男子のための夜学校と、多忙な生活を送った。 静修女学校では、ロースは生徒たちに、英語、音楽、聖書などを教えた。熱心な指導により、生徒や父母に厚く信頼された。1895年(明治28年)2月25日付けの書簡によれば、当時の札幌農学校教授であった新渡戸稲造も、自分の学生たちに対して、ロースから聖書や教科書の教えを受けることを勧めたとあり、多くの学生たちがロースのもとを訪れたとみられている。こうした多忙さのあまり、後述のようにロースは大変な読者家にもかかわらず「仕事で頭がいっぱいで、読書の時間さえほとんど無いほど忙しい」と1894年(明治27年)の書簡で述べ、1897年(明治30年)の書簡では、静修女学校の発展が札幌の北星女学校の妨げになることを危惧し、「学校があまりに急速に伸び過ぎているという不満が起こらないように願っています」というほどだった。 1897年(明治30年)9月には、静修女学校に幼稚園が併設された。幼児期からの一貫したキリスト教主義の人間教育が目的であり、スミス女学校の付属幼稚園の廃止に伴って伝道局本部から幼稚園設置の要望が出たためでもあった。幼稚園という言葉がまだ一般的でない時代であったが、次第に生徒も増え、教育も順調に進められるようになった。他にも日曜学校、青年向けの英語教室の開設など、教育のために精力的な活動を続けた。
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