小楠公二十六将
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明治18年(1885年)1月に建立された顕彰碑(四條畷神社内)で、正行と共に戦死したとされる「26人」の武将を讃えたのが以下の表である。ただし、2人については素性が全く判明しなかったとして実際は「24人」のみリストでは撰定されており、しかも8人については子息もしくは舎弟とのみあり、名前は16人分しかない。また、大半が『太平記』などに基づくもので、史料的な根拠は低い。もっとも、正行以外に死んだ武将が「26人」という数自体は、同時代史料の『阿蘇文書』にもある。 楠二郎正時(楠木正時) - 史実 楠左近将監正家(楠木正家) - 実在の人物だが四條畷の戦いに参戦したか不明同人子息 和田新発意賢秀(和田賢快) - 史実だが、名前(法名)はおそらく賢快 和田新兵衛(和田行忠) - 史実 和田紀六左衛門同人子息二人 大塚掃部介惟久(大塚惟正) - 史実では「惟正」。参戦した後史料から姿を消すため、実際討死した可能性は高い。 畠山与三職俊 畠山六郎 野田四郎同人子息二人 金岸某同人舎弟一人 開住良円 - 史実同人子息 - 史実 三輪西阿 - 実在の人物だが四條畷の戦いに参戦したか不明同人子息 河辺石掬丸 譽田某 阿間了願 青屋刑部 - 史実
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