小松城主
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/18 15:40 UTC 版)
天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に助勢した長秀は、戦後越前・若狭・加賀南半国(能美郡・江沼郡)を与えられた。これに伴い、能美郡の小松城には頼勝、江沼郡の大聖寺城には溝口秀勝が入った。 なお、これに先立つ天正8年(1580年)に小松城へ入ったとする説もあるが、当時の小松城主は柴田勝家の家臣である徳山則秀(五兵衛)の可能性があり、疑わしい。従来は『越登賀三州志』の記述により、天正8年、小松城に頼勝、松任城に則秀が入ったものと考えられてきた。しかし、天正11年4月27日付前田利家書状と『川角太閤記』によれば、賤ヶ岳の戦い直後の同年4月25日、則秀が利家に降伏し小松城を明け渡している。 天正12年(1584年)、越中の佐々成政が前田利家方の能登末森城を攻撃した(末森城の戦い)。これを受け、長秀は利家への援兵として与力の頼勝・秀勝を送り、加賀金沢城を守り一揆に備えさせた。 天正13年(1585年)4月16日に長秀が死去すると、同年8月頃、長秀の子丹羽長重は若年のため、家中不和を理由に越前・加賀を没収のうえ若狭一国へ減封された。頼勝・秀勝は、長重に替わって越前北ノ庄城へ入部した堀秀政の与力大名と位置付けられた。同年閏8月13日、加賀国能美郡に6万6000石を与えられたが、これは長秀時代の知行高から変更はなかったようである。同年2月、小松の本蓮寺に与えた寺領寄進状には「次郎右衛門尉頼勝」とあり、天正16年(1588年)7月5日付の秀吉朱印状には「村上周防守」とあるので、周防守の受領名を用いだしたのはこの頃と思われる。 天正15年(1587年)の九州の役では、頼勝は1000名の軍役を負い、秀政・秀勝とともに出陣。天正16年4月の聚楽第行幸に供奉し、天正17年(1589年)に着工した方広寺大仏殿の普請には2000名の動員を命ぜられている。天正18年(1590年)の小田原の役にも出陣したが、同年5月27日、秀政が陣中で死去したため、急遽堀秀治がこれを継いだ。同年11月4日、秀治は父の遺領を安堵され、頼勝・秀勝も変わらずその与力となった。 天正19年(1591年)9月、能美郡長田村を検地。これは太閤検地の一環として行われたものの、その原則に徹し切れておらず、在地掌握が未だ不十分であったことを窺わせる。 文禄元年(1592年)、文禄の役(第一次朝鮮出兵)では、頼勝は2300名の軍役を負い、北陸の諸大名とともに肥前名護屋城に在陣した。また、伏見城と大和多門城の普請を分担した。伏見城の築城は数度に渡り行われたが、文禄元年の第一次築城の際は、四国・中国・九州の大名が朝鮮に在陣していたため東海・北国の諸大名が普請を分担し、文禄3年(1594年)の改築に際しては、奥羽を除く全国の諸大名に人夫の動員が命ぜられた。
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