射撃絵画・彫刻(ティール)
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「ニキ・ド・サンファル」の記事における「射撃絵画・彫刻(ティール)」の解説
1960年に家族とともにパリに戻り、スイス出身の彫刻家ジャン・ティンゲリーと彼の妻で画家のエヴァ・エプリ(フランス語版)に出会い、以後、ティンゲリーはニキの制作に協力した。パリではパウル・クレー、アンリ・マティス、パブロ・ピカソ、アンリ・ルソーらの作品のほか、パリ市立近代美術館に展示されたジャスパー・ジョーンズ、ウィレム・デ・クーニング、ジャクソン・ポロック、ロバート・ラウシェンバーグ、マーク・ロスコら抽象表現主義やポップアートのアメリカ人画家の作品に影響を受け、制作の方向性を固めることになった。 1960年、ハリーと合意の上、別居。ハリーは子どもたちとともに別のアパートに移った(翌年、正式に離婚)。ニキはアサンブラージュの作品を制作し始めた。アサンブラージュは、平面的なコラージュと異なり、立体的な要素を組み合わせた表現である。同年にパリ市立近代美術館で行われた大規模な展示会「比較 ― 絵画=彫刻」に出展した《聖セバスティアヌス、または私の恋人の肖像》は、キャンバスにピンで留められた白いシャツとネクタイの上にダーツボードがあり、入館者が作品に向かってダーツを投げるという、攻撃性の強い作品であった。攻撃性はさらに強まり、ピストル、ナイフ、手足を切断された人形、爪などを作品に取り込むようになった。 さらに、こうしたアサンブラージュから「射撃絵画(ティール)」が生まれた。これは、絵具を入れた袋を石膏でキャンバスに固定し、離れた場所からピストルやライフル銃で撃つパフォーマンスによる絵画である。キャンバスを何度も撃つことで、絵具が次々と流れ出す。ニキはこの「誰も殺さない殺害」を、「私は絵が血を流して死ぬのを見たかったから撃った」と表現した。射撃絵画は、「汚れ、染み」を意味する「タッシュ」に由来する抽象絵画のタシスムと、抽象表現主義のアクション・ペインティングを組み合わせた衝撃的なパロディーでもあり、さらに1960年代に盛んに行われたハプニングの作品でもあった。最初の射撃絵画の制作(セッション)は、ティンゲリーのアパートのあるパリ15区ネッケル地区(フランス語版)(モンパルナス)の袋小路アンパス・ロンサン(フランス語版)で、ティンゲリー、美術評論家ピエール・レスタニ(フランス語版)、写真家ハリー・シャンク(フランス語版)、造形作家ダニエル・スペーリ(フランス語版)とともに行ったが、この後、ジャスパー・ジョーンズとロバート・ラウシェンバーグも制作に協力した。一人ひとり順番に撃った。ニキは、「1枚の絵に向かって撃ち、別の作品に変貌するのを目の当たりにするのは、… 刺激的でセクシーであり、同時にまた悲劇的だった。まるで誕生と臨終に同時に立ち会うような印象だった。… 自分自身に向かって発砲することで、社会と社会の不正に向かって発砲しようとした。私自身の攻撃性に向かって発砲することで、時代の攻撃性に向かって発砲しようとした」と、美術史家ポントゥス・フルテン(フランス語版)宛の手紙に書いている。射撃絵画は2年にわたって制作されたが、この間、「病気になったのは1度だけ」であり、彼女にとってはまさに「治療」であったという。 射撃絵画シリーズは、翌1961年にピエール・レスタニがJ画廊で企画した個展「思う存分撃つ(Feu à volonté)」に展示され、ニキの名を世に知らしめることになった。射撃絵画・彫刻シリーズには、以下に見るように、政治・社会批判としての《キングコング》、《ケネディ-フルシチョフ》や、宗教・家父長制批判としての《祭壇》シリーズなどがある。
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