寒川神社との関係とは? わかりやすく解説

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寒川神社との関係

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 09:18 UTC 版)

大神塚古墳」の記事における「寒川神社との関係」の解説

大神塚古来より寒川神社と深い関係があり、「寒川神社由緒古墳」として伝えられていた。そのため、1908年明治41年)の発掘調査当時寒川神社宮司の菟田茂丸(うだいかしまろ)の発願始められた(高橋清次郎という村民所有地の開墾時に大神塚周辺の古墳付近で3個の勾玉が見つかり、これを当時寒川村長の北野与吉が菟田宮司に見せたことが端緒となり発掘調査決断)。調査日本初人類学者である東京帝国大学教授坪井正五郎発掘調査担当した当時古墳発掘調査することは大変珍しく横浜貿易新報によりその様子が詳報されている。 寒川地域では、寒川神社国造祖先祀る神社としても伝わっており、大神塚相模川流域初め開拓した初代相武国造武彦命を、後世後裔追慕するために築造したとされていた。この伝承を記す史料としては、1841年天保12年成立の『新編相模国風土記稿』、『社寺考(たかくらしゃじこう)』(1659年万治2年)頃から寒川神社神主金子伊予守編著)の2点知られる當寺の山後に在り。凡二十四方當寺山號は是より起こると云う應神塚と唱ふ。塚上に大日石像あり。蓮華座に『大塚山安樂寺成就院傳聞相州一宮寒川大明神碑、先生御廟窟也、天和二年壬戌十月廿一日法印善榮造立』と彫る。 — 『新編相模國風土記稿』巻六十三 亦俚老曰ク、コレ寒川名神御本地ナリト唱ス。往昔相模国国造墳墓ナルベシト俚老マタフルヤシ塚ニ大日石像ヲ建テテ曰ク、蓮華ヲ彫シ、『大塚山安楽寺成就院傳聞相州一之宮寒川大明神碑。先王御廟窟也。天和二年壬戌十月廿一日法印善栄造立。』ト記ス。 — 『社寺考』高倉巻一 このように当時には蓮華座に「傳聞相州一宮寒川大明神先生先王)之御廟窟也」と彫られ大日如来像が塚の上にあったことが知られるまた、明治発掘調査時には安楽寺末寺南泉寺寒川町一之宮地区)の古書類から、貞享3年1686年)の安楽寺梵鐘銘文写し発見されている。 大日本國相模國一宮安樂寺、夫當寺當國總社郷鎭守謂以奉號、寒川大明神者也、傳聞昔日彼神躰依和於築扣卒築於此院立石碑於彼其聖跡也、 すなわち安楽寺は「寒川大明神者」(寒川神社)の別当寺として創建され、古代に扣卒(控え兵士)が築いた塚に、神躰依(寒川大明神御神体)が宿り、此院(安楽寺)が建てた石碑がある大神塚聖跡であるとする。 なお、大神塚が「応神塚」とも称されるようになったのは、鎌倉幕府武家の守護神として応神天皇信仰し中世以降寒川神社祭神にも応神天皇加えられたためと考えられている。明治発掘調査時の頃には、「車塚」や「ひょうたん塚」とも称されたほか、寒川神社霊魂神霊)が祀られるとの伝承残っていた。また、1931年昭和6年)に制作された『寒川音頭』の第14番歌詞には「国造 應神塚に 置いた薄霜 ほのりと消えりゃ」とあり、当時の人々大神塚国造の墓陵として認識していたことが窺える

※この「寒川神社との関係」の解説は、「大神塚古墳」の解説の一部です。
「寒川神社との関係」を含む「大神塚古墳」の記事については、「大神塚古墳」の概要を参照ください。

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