寒川神社との関係
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大神塚は古来より寒川神社と深い関係があり、「寒川神社由緒古墳」として伝えられていた。そのため、1908年(明治41年)の発掘調査は当時の寒川神社宮司の菟田茂丸(うだいかしまろ)の発願で始められた(高橋清次郎という村民が所有地の開墾時に、大神塚周辺の古墳付近で3個の勾玉が見つかり、これを当時の寒川村長の北野与吉が菟田宮司に見せたことが端緒となり発掘調査を決断)。調査は日本初の人類学者である東京帝国大学教授の坪井正五郎が発掘調査を担当した。当時、古墳を発掘調査することは大変珍しく、横浜貿易新報によりその様子が詳報されている。 寒川地域では、寒川神社は国造の祖先を祀る神社としても伝わっており、大神塚は相模川流域を初めて開拓した初代相武国造の茅武彦命を、後世に後裔が追慕するために築造したとされていた。この伝承を記す史料としては、1841年(天保12年)成立の『新編相模国風土記稿』、『鷹倉社寺考(たかくらしゃじこう)』(1659年(万治2年)頃から寒川神社神主の金子伊予守が編著)の2点が知られる。 當寺の山後に在り。凡二十間四方(當寺の山號は是より起こると云う)應神塚と唱ふ。塚上に大日の石像あり。蓮華座に『大塚山安樂寺成就院、傳聞相州一宮寒川大明神碑、先生之御廟窟也、天和二年壬戌十月廿一日、法印善榮造立』と彫る。 — 『新編相模國風土記稿』巻六十三 亦俚老曰ク、コレ寒川名神ノ御本地ナリト唱ス。往昔ハ相模国ノ国造ノ墳墓ナルベシト俚老マタ伝フルヤ、蓋シ塚ニ大日ノ石像ヲ建テテ曰ク、蓮華ヲ彫シ、『大塚山安楽寺成就院。傳聞相州一之宮寒川大明神碑。先王ノ御廟窟也。天和二年壬戌十月廿一日、法印善栄造立。』ト記ス。 — 『鷹倉社寺考』高倉郡 巻一 このように、当時には蓮華座に「傳聞相州一宮寒川大明神碑先生(先王)之御廟窟也」と彫られた大日如来像が塚の上にあったことが知られる。 また、明治の発掘調査時には、安楽寺末寺の南泉寺(寒川町一之宮地区)の古書類から、貞享3年(1686年)の安楽寺梵鐘の銘文の写しが発見されている。 大日本國相模國一宮安樂寺、夫當寺者當國總社郡郷鎭守謂以奉號、寒川大明神者也、傳聞昔日彼神躰依和於築扣卒築於此院立石碑於彼其聖跡也、 すなわち安楽寺は「寒川大明神者」(寒川神社)の別当寺として創建され、古代に扣卒(控えの兵士)が築いた塚に、神躰依(寒川大明神の御神体)が宿り、此院(安楽寺)が建てた石碑がある大神塚が聖跡であるとする。 なお、大神塚が「応神塚」とも称されるようになったのは、鎌倉幕府が武家の守護神として応神天皇を信仰し、中世以降の寒川神社の祭神にも応神天皇が加えられたためと考えられている。明治の発掘調査時の頃には、「車塚」や「ひょうたん塚」とも称されたほか、寒川神社の霊魂(神霊)が祀られるとの伝承が残っていた。また、1931年(昭和6年)に制作された『寒川音頭』の第14番の歌詞には「国造 應神塚に 置いた薄霜 ほのりと消えりゃ」とあり、当時の人々が大神塚を国造の墓陵として認識していたことが窺える。
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